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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「そなたが私の夢を? 真か、それは嬉しいな」
「夫婦は以心伝心と申しますもの」
婉然と微笑んだ千種はさながら大輪の牡丹が花開くような美しさだ。頼経はひと月ぶりに逢う妻の貌に腑抜けたように茫然と見惚れた。
「それよりも、御所さまは何をなさっておられましたの?」
 文机を覗き込もうとすると、頼経は狼狽えた。
「止せ、これは見るな」
 千種は頼経を軽く睨んだ。
「まあ、私と逢わぬ間に、どなたか他にお心を通わせるお方がおできになったのですか?」
 頼経はますます慌てた。
「まさか、馬鹿を申すでないッ。これはその―」
 その前に千種は頼経がしたためようとしていた薄様紙を手にしていた。
「失礼いたしまする」
 淡い紅の美しい料紙には、
―ひとめ逢わんと願えども、思ふにまかせぬことぞ多かりけるに、せめて夢で逢わんとぞ思ふ。
 短い文が書き付けてあるが、それも書き損じたらしい箇所や、書き直した跡が見られた。
 つまりは良人が妻に宛てた恋文だった。
「私は公卿の生まれの癖に、詩歌やこのような文を書くのは苦手なのだ、いつぞやも申したであろう」
 摂関家出身の将軍とは思えないが、この文のつたなさでは、本当に苦手なのだろう。逢わない間は文の一通くらいくれても良いのにと思ったけれど、この有様では期待する方が無理というものだ。
 千種は思わずクスリと笑った。頼経がムッとしたように膨れる。
「笑ったな。私は毎日、そなたへの文に頭を悩ませていたというに」
 千種は真顔で首を振った。
「いいえ、お文はちゃんと頂きました」
 訳が判らないといった表情の良人に、千種は応えた。
「御所さまの夢でも良いから私に逢いたいと願うお心がちゃんと届いたからこそ、私の夢の中に御所さまが来て下さったのです」
 頼経は明るい貌で頷いた。
「なるほど、そういうことか」
 それからと、千種は持参した風呂敷包みを文机に載せた。
「これは何だ?」
 不思議顔の頼経の前で風呂敷を解き、仕立て上がったばかりの狩衣を差し出した。
「お気に召すかどうかは判りませんが、お召し頂ければ嬉しうございます」
「紫が縫ったのか?」
 何とも嬉しげな声に、千種もつられて笑った。
「はい。茜に少しだけ手伝って貰ったところもありますけど」
 正直に応えると、頼経もまた吹き出した。
「私はそういう紫の嘘をつかぬ真っすぐなところが好きだ。私の妻は美しく賢く、優しい。そして、心がいっとう清らかだ」
 あまりに褒め過ぎのような気がして、千種は赤らんだ。
「それは褒め過ぎというものです」
 頼経は真顔で異を唱える。
「そのようなことはない」
 しばらくして二人は顔を見合わせて微笑み合った。
 この後、夜着を着て布団に押し込められていた将軍が御台所の縫った狩衣をすぐに着ると言い出して、お付きの者たちを困惑させたのは言うまでもなかった。

 その半月後のある朝、北条政子は眠るように息を引き取った。特に不調を訴えることなく、前夜までは変わりないことを侍女が確認している。いつもは朝が早いのに、あまりに遅いことを訝しんだ侍女が覗いた時、既に息絶えていた。
 行年七十六歳、初代将軍の妻・御台所として頼朝と共に幕府の礎を築いた稀有なる女性であった。頼朝との間に四人の子を儲けたが、いずれの子にも先立たれ、その晩年は淋しいものだった。三代実朝が甥の公暁に殺害された後、後鳥羽院が起こした倒幕の乱、承久の変では動揺する御家人一同を見事な弁舌で宥め、鎌倉武士の心を一つにまとめあげたその功績は大きい。
 北条政子の存在は鎌倉幕府草創期には、なくてはならない人だった。
 
 身代わり姫の告白

 政子の死により、幕府内は憂愁に閉ざされたが、世の中には悲喜こもごも、そのひと月後には御台所鞠子の懐妊が正式に発表された。竹御所鞠子は現在、妊娠四ヶ月、侍医の診立てでは母子ともに順調で、出産は来年早々になるとのことだ。
 この頃、千種は?紫(むらさき)のおん方?とか?紫(むらさき)の上?と呼ばれることが多くなっていた。もちろん、これは元々の名前紫(ゆかり)とい名にちなんだものだ。竹御所というのはあくまでも尊称であり、次第にこの?紫のおん方?という通称の方が親しまれるようになっていた。
 懐妊を知ったその日、頼経は泣いた。
「よくやってくれた。尼御台さまがご存命でおわせば、どれほどに歓ばれたことか」
 その言葉を聞くにつけ、千種は心が沈んでゆくばかりだった。愛する男の子を授かったのは素直に嬉しい。が、所詮、自分は紛いものの姫なのだ。
 御台所としての自覚も十分に備わりつつある今ですら、その罪にも似た意識はずっと千種の心の底に淀んでいた。その心労のせいか、ほどなく少し遅れて始まった悪阻は千種を苦しめ、食事もろくに喉を通らない有様となった。
 懐妊初期には順調と診立てた薬師も、千種の日毎に弱っていく様子に首を傾げ、眉をひそめた。
「御台さまには何かお心にお悩みがあらせられるご様子、特にお身体には気になる障りはございませんゆえ、大方はそのご心痛が元ではないのかと拝察仕ります」
 薬師は心労が取り除かれれば、烈しすぎる悪阻も自然に治まってゆくだろうと頼経には告げた。
 葉月に入り、暑さは格段に厳しくなった。千種は既に五ヶ月に入り、着帯の儀も滞りなく済ませていた。しかし、この時期になっても、頑固な悪阻はまだ彼女を苛んでいた。医師が処方した薬も効かず、日に日に痩せてゆく妻を若い良人は涙を浮かべて見守った。
「私が代われる者なら、代わってやるものを。許してくれ、そなたがここまで弱るのであれば、子など作るのではなかった」
 頼経は多忙な政務の合間を縫い、妻を見舞った。起き上がることもできなくなった千種の口に手ずから木匙で粥を食べさせたり、薬を飲ませたりした。
 労り合う夫婦の姿に貴賤はない。頼経が甲斐甲斐しく妻の世話をする姿は御家人の涙を誘った。
 それでも、暑かった夏を何とか乗り切り、お腹がいよいよ目立ち始める頃になると、悪阻も次第に治まってきた。
 八月の終わり、頼経は千種を伴い、由比ヶ浜へ赴いた。海を見たいという妻のたっての望みをきいてのことだった。
 頼経は千種を背負い、市の賑わいを抜けて海まで歩いてきた。二人ともに質素な直垂と小袖を身につけて身をやつしていた。
「海が綺麗」
 頼経に背負われたまま、千種は鎌倉の海を熱心に眺めた。由比ヶ浜は今日も海鳴りの音が響いている。鎌倉で生まれ育った千種は、この海鳴りの音に慣れ親しんでいた。この音を聞いていると、いつでも子守歌を聞いている赤児のように幸せな気持ちになったものだ。
「頼経さま、もし、私がこのまま儚くなったら、私をまたここに連れてきて下さいますか?」
 唐突な願いに、頼経は憮然として言った。
「そのような願いは到底、受け容れがたい。何故、そなたが儚くなるのだ? 侍医も特に悪いところはないと申している。そなたの気持ちの持ち様が余計に身体を弱らせているのだぞ」
 それには応えず、千種は淡く微笑んだまま、海を食い入るように眺めた。