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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「いつか頼経さまはおっしゃいましたね。鎌倉がお好きだと。私もふるさとのこの海が大好きです。私は生まれたときから、ずっとこの波の音を子守歌代わりにして育ちましたから」
 だから、その海の側で眠りたいのです。
 呟きが海風に儚く溶けて散った。
 頼経がついに感情を爆発させた。
「愚か者めが。私の前で死ぬ死ぬとばかり申すな。私がどれだけそなたに惚れておるか、そなたは存じておるであろうが。鎌倉どのは女房に腑抜けて鼻の下を伸ばしておると御家人ばかりか鎌倉中の笑いものになっておる。そんな―そんな私に」
 そこで言葉が途切れた。グスっと洟をすすり、頼経は続けた。
「そなたを失い、ただ一人で生きてゆけと申すのか? そなたはやはり、つれない女だ」
 頼経の逞しい肩が小刻みに震えていた。
「そのように不吉な哀しいことばかり申すのなら、もう帰るぞ」
 脅すように言うのに、千種は小さな声を立てて笑った。
「申し訳ございません。御所さまを困らせるつもりはなかったのです」
 千種は素直に謝り、降ろして欲しいのだと訴えた。 
 頼経は手頃な流木を探してきて、千種を座らせた。
「やはり背中からの眺めでは物足りぬか?」
 頼経が問うので、千種は笑って首を振った。
「いいえ、御所さまの背中から眺める鎌倉の海はいっとう美しうございます」
 長身の良人に負われると、海を見下ろす格好になる。小柄な自分の眼線と見るのとはまた異なり、それはそれで趣があった。
 頼経が空を仰ぎながら独りごちた。
「今年の夏も終わるな」
「はい」
 千種も良人を真似て空を見上げる。はるかな水平線の辺り、蒼い空と海が溶け合い、どこまでか空なのか判らないほど、今日の海は蒼かった。ここまで蒼い海を千種はいまだかつて見たことはない。
 頼経の言うように、見上げた空にはうろこ雲が浮かんでいて、もう盛夏の空ではなかった。最愛の男と共に眺めたこの故郷の海を自分は忘れることはないだろうと、千種はぼんやりと考えた。
 ?あのこと?を話すのなら、今をおいてしかない。はっきりと自覚しているわけではなかったけれど、何故か千種は我が身に約束された時間が残り少なくなりつつあることを漠然と感じ取っていた。さしたる根拠があるわけではない。しかし、蝋燭の焔がじりじりと燃え尽きようとするかのように、生命の焔が最後の輝きを放とうとするのをどこかで感じていた。
 もし自分の身に何かあれば、鎌倉幕府を根底から揺るがすこの秘密は永遠に誰に知られることもなく葬り去られる。恐らくはそれこそが政子の望んだことに違いない。が、この世でたった一人の愛するひとにはせめて真実を告げて逝きたい。もしかしたら、それは政子を裏切ることになるのかもしれないけれど。
「頼経さま」
 妻に名を呼ばれ、頼経が振り向いた。
「何だ?」
 その儚い美貌に浮かぶ覚悟の色を見てとったのか、頼経は形の良い眉をつり上げた。
「また不吉なことを申すのなら、今度こそ有無を言わせず連れて帰るぞ」
 千種はゆるりと首をめぐらせた。
「いいえ、頼経さまがご心配なさっているような話ではございません。ただ、いささか愕かせてしまうことにはなるかもしれませんが」
 半ば戯れ言に紛らわせるように言い。長い睫を伏せ、しばらく鳴り止まぬ海鳴りを聞いていた。次に眼を開いたときの彼女の瞳に、もう迷いはなかった。
 頼経が笑いながら言う。
「そのような言い方をされると、かえって何を言われるかと心ノ臓に良くない」
 千種は淡く微笑んだ。
「申し訳ありません。ですが、これだけはどうしても今の中にお伝えしておきたいのです」
 頼経は優しい眼で妻を見た。
「その打ち明け話とやらを聞かせてくれ」
 千種は頷き、息を吸った。やはり、口にするにはかなりの勇気が要る。だが、頼経にだけは真実を告げたい。その想いが勝った。
「私は紫姫ではありません」
 放たれたそのひと言に、頼経は訳が判らないといった顔だ。それは当然だろう。千種は四年前の秋、突如として御所に呼び出され、政子から亡き紫姫の身代わりを命じられたときのことを語った。
 更にその二ヶ月後の祝言を経て、今に至るのだということも。
 千種は他人事のように淡々と語った。あのとき―政子に身代わりを命じられたときは理不尽だと思い、烈しい悲憤を感じたのに、今となっては、まるで過ぎ去った夢の中の出来事のようにしか思えない。
「思えば、紫姫として生きることになったあの瞬間から、夢の中で生きていたのかもしれません。最初は何とも無味乾燥な他人の人生を生きているだけだと空々しい想いを抱いておりましたが、あなたさまと出逢ってから、その夢が幸せな日々に変わりました」
 頼経の唇がかすかに震えた。
「そんな馬鹿な―。では、本物の紫は、私の妻になるはずだった女性は既に四年も前に亡くなっていたというのか」
 千種は頼経を見上げた。彼は先刻、見せた動揺が嘘のように、静かな瞳で海を見ていた。その横顔はあまりにも静謐すぎて、何の感情も読み取れない。彼に嫌われたとしても仕方ない。この四年間というもの、千種は頼経をずっと騙し続けていたのだ。彼が心から愛おしんだ妻は源氏の姫などではなく、一御家人の娘でしかなかった。
 千種は続けた。
「身代わりを命じられたときは、私も尼御台さまをお恨み致しました。あの時、私は選択の余地すらなかったのです。退路を断たれ、ただ前に進むしか生きるすべはないのだと言われたのも同然でした。何故、我が身がそのような運命に―他人の人生に巻き込まれ翻弄されねばならないのかと、すべてが虚しいものに思えました。でも、その中にふと気付いたのです。尼御台さまが守りたかったものを私も共に守ろうと」
 頼経が初めて千種を見た。
「尼御台さまが守りたかったもの?」
 千種は頼経と視線を合わせ頷く。
「あの方は幕府を守りたかったのです。亡きご夫君頼朝公と共に夫婦力を合わせて築き上げた鎌倉幕府。尼御台さまにとって幕府は生涯のすべてを捧げた見果てぬ夢であったに違いありません」
「見果てぬ夢―」
「はい。頼朝公との間に四人の御子を儲けながら、皆さまが先立たれた。残された孫君方も次々とあえない最期を遂げられ―。最後に尼御台さまが望みを繋いでおられたのが頼家公のご息女であられる紫姫だったのです」
 口に出されたことはありませんが、と、千種は前置きした。
「紫姫は源氏嫡流―頼朝公の血を引く最後の方でした。恐らく尼御台さまが何より優先されたのは源氏の血を引く正真正銘の姫が誰でであるかという事実よりも、鎌倉武士の心のよりどころである源氏の存続だったのではないでしょうか」
「源氏の存続、か」
 頼経は呟き、首を振った。
「さもありなん。彼(か)の方は幕府が続いてゆくことに尋常ではない執念を燃やしておいでであった。私が四代将軍として迎えられたのも、そのせいだったのだからな」
 政子は生涯、源氏の血に拘った。頼経も頼朝の同母妹の曾孫であり、紛れもなく頼朝の血を引いている。その頼朝の血を引く摂関家出身の将軍に二代頼家の娘である紫を娶せ、いずれは源氏の直系の血を受け継ぐ五代将軍を誕生させる。それこそが政子の最後まで見た夢だったのである。
 頼経がポツリと洩らした。