華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
千種は気のない様子で頷き、箸を置いた。
「今日は疲れたみたい。もう横になるわ」
「え?」
茜はまだ殆ど手つかずの膳を気遣わしげに見やった。
「私、余計なことを申し上げたのでしょうか?」
茜が泣きそうな表情で言うのに、千種は微笑んだ。
「そのようなことはない。茜は私のために良かれと思って教えてくれたのだもの」
「ですが、私が無駄話をお話ししたばかりに、御膳も召し上がらず」
千種は力なく笑った。
「それとは関係ない。真じゃ、案ずるな」
千種は茜を安心させるように、もう一度微笑んだ。
しかし、寝所に入ってからも、悶々として眠れない一夜は続いた。
明け方、妙な夢を見た。男と女が全裸で絡み合う淫らな夢だ。男の方はこちらに貌を見せているので、そも誰なのかすぐに判った。女は丈なす黒髪を解き流し背中を見せているため、造作が定かではない。
「ううっ、あぅぁっー」
聞くに耐えない女の悦がり声が響き渡り、千種は思わず耳を覆った。男も女も一糸纏わず、女は男の膝に両脚を大きくひらいた姿でまたがっている。
男が烈しく下から突き上げる度に女は淫らな声を上げ、その白い身体が反り返り長い漆黒の髪が揺れた。
―止めて、お願いだから、私にそんな夢を見せないで。
到底見ておれず、叫んだところで、淫らな光景は消えた。
寝覚めの床で、千種は涙を流した。
―私は何という淫らな女になってしまったのか。
あのような淫夢を見るなぞ、以前の自分であれば想像もつかない。しかし、頼経という愛する男を得て、愛される歓びを知った今、このような夢を見るのは自分の心に醜い魔物が棲んでいるからに他ならなかった。
そう、夢の中で見知らぬ女を抱いていたのは頼経であったのだ。恐らく女の方は頼経手ずから自筆の扇を賜った白拍子環だ。
今宵、頼経は千種の許に来なかった。その夜にこのような禍々しい夢を見たというのも何かの予兆だというのだろうか。夢は時として現になることもあるという。
では、あれはまさしく現実?
考えれば考えるほど、悪い事態ばかり想像してしまう。千種は溜息をついた。人を愛することは美しい。愛する誰かを想うだけで、幸せな想いに包まれる。
けれど、その反面、愛は憎しみにも変わり、人を夜叉にする。愛する男を他の女に取られれば、女は男の不実さを恨み、自分から男を奪った女を憎む。延々と果てることのない暗闇地獄へと堕ちてゆく。その地獄に堕ちた女が心に棲まわせる魔物は?嫉妬?という名の感情だ。
その日から頼経は軽い風邪で寝込んだ。何事もなければ、すぐにでも見舞に駆けつけるところだけれど、どうもあの白拍子に輝くような笑顔で話しかけていた頼経のことを思い出すと、見舞に行く気にもなれなかった。
また、あの淫らな夢のこともある。あんな夢を見た後で、頼経の貌を平静に見られる自信はない。
その中に日は徒(いたずら)に流れた。最初は軽い風邪だと思われたのが長引き、頼経は病臥してから半月が経過している。流石にこれはただ事ではない、一度は見舞に参上しなければと思っている中にまた機会を逸してしまう。
そんなこんなで結局、ひと月が経ってしまった。その頃、御所では、こんな噂が立っていた。頼経が病というのは実は真っ赤な嘘で、その実、寝所に白拍子を引き入れて日がな淫事に耽っているというものだ。事が将軍家、幕府の権威に拘わるだけあって、執権泰時は事実無根の悪しき噂を流す輩を厳しく取り締まった。
が―、果たして、本当にただの噂にすぎないのだろうか。千種の中で疑念は次第に膨らんでいった。噂によれば、頼経は白拍子環をたいそう気に入り、寝所に二人で引きこもり出てこないとさえ囁かれていた。藤の舞を披露したことから、?藤の前?とたいそうな名を賜り、既に正式な側室としての待遇も受けているとかいないとか。
―御所さまはまだお若い。聞けば、藤の前はまだ十七歳だというではないか。それも白皙の美貌麗しく、それこそ咲き匂う藤の花のようだというぞ。
―美しいだけではない。何しろ将軍さまの御前であれだけの歌と舞を即興で披露したのじゃ。頭の方も切れる、まさに才色兼備の娘じゃろうて。
千種は心ない噂を耳にしては、ひっそりと涙を流す日々が続いた。
十七歳といえば、十六歳の頼経とはふさわしい。三十二歳の自分よりは少なくともはるかに。
―私はそなたの心の美しさを愛したのだ。例えこれより先、何を聞いたとしても私のそなたへの心は変わらぬ。
彼は確かにそう誓ってくれた。けれど、それが永遠に続く約束だと誰が確証できるのか。人の心は季節のように、うつろうものだ。ましてや十六歳も年上の妻を押しつけられた頼経が心変わりをしたからとて、責められるはずもなかった。
そんなある日、竹御所を訪れた客人があった。
折しもその時、千種は茜と仕立物に精を出している最中であった。下級の侍女が知らせに来たらしく、茜は一旦廊下に出て言づてを聞いた後、また戻ってきた。
「御台さま、尼御台さまがこちらにお渡りになるそうでございます」
「まあ、尼御台さまが?」
愕きの声を上げた矢先、聞き憶えのある声が響き渡った。
「まあ、近頃塞ぎ込んでおることが多いと聞いたが、その様子ではさほど案ずることもなかったようじゃな」
先触れとほぼ同時に到着するところが、気の早い政子らしい。千種は茜とこっそりと貌を見合わせた。
「ようこそ、いらせられませ」
政子とは形の上ではあるが、祖母と孫娘ということになっている。千種は親しげに迎え、政子は当然のように上座に座った。
「何をそのように熱心に縫うておる?」
千種が頬を染めてうつむいた。茜が代わりに言上する。
「御台さまは御所さまの狩衣を縫っておいでにございます」
政子が大仰なほどに喜色を露わにした。
「おう、それは良きことじゃ。御所さまも御台さま手ずから縫われた狩衣をご覧になれば、おん病もすぐに治られよう」
その何気ないひと言に、千種は意を決した。
「尼御台さま」
政子が探るような視線を投げて寄越す。
「相変わらず他人行儀だの。そなたは嫁いで御台所になったとはいえ、我が孫ぞ。このように内輪だけの席では、昔と変わらず祖母と呼んでたも」
千種はすぐに言い換えた。
「申し訳ございません。お祖母さま」
政子は破顔した。
「そうそう、それで良いのだ。ところで、何か訊きたいことがあるのではないか?」
「はい」
千種は素直に頷き、つと膝をいざり進めた。
「頼経さまは真におん病なのでございますか?」
刹那、政子の皺に埋もれた眼がまたたいた。
「そなた、何を申しておる。大方、そのようなことであろうと思うて訪ねて参ったが、やはりのう」
茜がまた控えめに言った。
「畏れながら、御所さまのここひと月のご動向には色々と妙な噂も立っておりますれば、御台さまはそのことをたいそう気に病んでおいでにございます」
政子が幾度も頷いた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ