華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
千種の背中には大きな赤アザがある。赤児の手のひらほどのものだ。
「御所さまにはお眼汚しですね」
起き上がろうとした千種を頼経は止めた。軽く背中に手を添えて押しとどめる。
「そのままで」
「ですが」
躊躇う千種に次の瞬間届いたのは信じられない科白だった。
「美しい」
頼経は千種のなだらかな曲線を描く背中を優しい手つきで撫でた。
「今、何と仰せられました?」
信じられぬ想いで訊ね返すと、頼経はまたしてもはっきりと応えた。
「私は、これほど美しく咲いた花を見たことがない。天上に咲く花のように気高く見える。そなたにふさわしい花だ」
頼経は千種の背のアザを紅い花にたとえたのだ。白い背中にひらいた紅い花に、頼経はそっと唇を押し当てた。
「頼経さま」
千種の眼に涙が溢れた。
「紫、私がそなたの何を知ったとしても気持ちは変わらぬと申したのは、嘘ではない。そなたは外見も美しいが、その心がとても綺麗なのだ。私は恐らく、最初からその心の美しさに惹かれたのだろう。そなたを見ていると、私は御所の庭に咲く蓮花を思い出すのだ。醜いことの多きこの濁世に凜としてひらく一輪の蓮。私には、そなたがいつもそのように見える」
「私は本当に果報者です」
千種は嬉し涙をひっそりと流した。
「世辞ではない。私の心からの気持ちだよ」
頼経がそっと背後から覆い被さってくる。重なり合った身体と身体。鼓動が重なり、愛する男と結ばれる幸せに千種は浸る。
頼経に背後から貫かれ、千種は甘い喘ぎ声を上げた。
「紫」
名前を呼ばれ、振り向かされる。いまだ繋がったままの体勢で頼経は千種の上半身を引き寄せ、貪るような口づけを続けた。与えると同時に奪うかのような口づけに千種は身を任せる。
その夜の営みは頼経がまるで千種のすべてを奪い尽くすかのような、頭から丸ごと喰らい尽くされてしまいそうなほど烈しいものだった。けれど、初夜と異なるのは千種の気持ちだ。
烈しい営みの中にも、その夜、頼経は千種を終始労り気遣ってくれた。千種の意に反するような行為は一切しなかった。
二度目の夜、千種はこの世に生まれて三十二年で初めて頼経の腕の中で美しく花ひらいた。
藤の舞
暦が五月に入ってほどなく、将軍夫妻は打ち揃い、源氏の守り神でもある鶴岡八幡宮に参詣した。
参道から大鳥居をくぐり石段を登ってゆくと、本殿に至る。
その社前には、立派な舞台が作られ、舞台上にはどこから運び込んできたものやら、見事な藤の枝が備前焼の大壺に挿されている。花はふた色、淡い紫と純白だ。枝振りもひときわ立派なものが惜しみなく束になり舞台四方を彩っているのはまさに圧巻ともいえた。
舞台の少し前方に将軍夫妻や幕府の主立った御家人の席が設えられている。きらびやかに盛装した将軍と御台所は殊に輝かんばかりの美しさであったが、その中でも十六歳の将軍の傍らに寄り添っていても、まったく違和感のない御台所の典雅な美貌に人々は眼をみはった。
御台所鞠子は既に三十二歳、良人の頼経より十六歳も年上だが、こうして居並んでいる様は少しも不似合いではなく、むしろ、似合いの美しい夫婦(めおと)雛のようである。小柄で可憐な鞠子はどう見ても二十歳ほどにしか見えなかった。
将軍夫妻の傍らにはむろん、執権北条泰時の姿や尼御台政子の姿も見えた。
既に一同は参詣を終えている。皆が着座したのを合図とするかのように、舞台では白拍子の舞が始まった。
舞うのは三人、いずれも若き眉目良き女たちばかりである。装束は下げ髪に立て烏帽子を被り、白小袖・紅の単(ひとえ)・紅の長袴・白水干を着け、白鞘巻の刀を佩く。
手に持つのは蝙蝠(扇)だ。要するに男性の格好である。
三者三様同じ出で立ちをした白拍子たちがすべるように舞い踊る。さながら花びらが舞うごとく、水が流れるごとく、まさにその舞から一幅の絵を想像できるほどだ。
突如として朗々とした声が響き渡った。
「いにしへの 都の姿 くらぶれば いかにまさらむ 鎌倉の春」
中央の殊に目立つ派手やかな美貌の白拍子が謳っている。はるか昔に栄えたどのような都よりも今、この鎌倉の繁栄は比べようもなく素晴らしい。そのような意味だ。鎌倉の春をことほぎ、その繁栄ぶりを高らかに歌いあげたのは将軍臨席の舞台にはふさわしい。
「おお、これは素晴らしい」
重臣の一人が呟くのに、執権北条泰時もしきりに頷いている。
更に舞は続き、
「藤の花 昇りゆく先 見果つれば 花匂ふ都 今盛りなり」
玲瓏とした声音で高らかに歌い上げる。
二首めは季節の花、藤にかけている。藤の花は松をよすがとして伸びてゆくが、上へ上へと昇ってゆくその先ははるか高みにあって、到底見届けることはできない。
鎌倉という武士の都は今、まさにその藤のごとく昇運のまっただ中にある。下の句は?あおによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり?から本歌取りしている。
どちらの歌も東国の都の繁栄を歌い込んだものばかりである。
その歌を終わりとして、舞いは終わった。三人の白拍子が観客席に向かって深々と頭を垂れる。
と、しじまに手を打つ音が響いた。見れば、若き将軍頼経が感じ入ったような表情で手を打っている。
「どちらも素晴らしき歌であった。即興にしては歌も舞いも見事なものだ。いずれも藤の花のように咲き匂う美貌だな」
そのひと言に、泰時の表情が微妙に動いた。むろん、それはほんのひと刹那のことにすぎず、後は何事もなかったかのように、静まり返った水面のように表情は消えた。
頼経の意向で直ちに墨と硯が用意された。将軍の命で中央で舞った白拍子が御前に召し出された。頼経はよほど舞と歌に感動したらしく、自らの扇に白拍子たちが歌った歌を二首書き付けて賜った。
「そちの名は何と申す?」
更に頼経は畏まる白拍子に気さくに声を欠かけた。
「環(たまき)と申します」
「環か、良き名であるな、白拍子とはいえ、ここまで至るにはさぞ日々の修練を重ねてきた成果であろう。これより後も怠らず、芸事に精進して更に見事な舞いや歌を披露するが良い」
「お言葉、心に刻み一心に精進致します」
環は跪き、深々と頭を下げた。
その場はそれで終わり、その日の夕刻。
千種は茜の介添えで夕餉の膳を取っていた。二度目に臥所を共にして以来、ほぼ毎夜のように頼経は千種の許で夜を過ごしている。しかし、この夜に限って、お渡りはないと早々と通達が来ていた。
いつもは頼経と夕餉を共にするのがならいだが、今日は一人である。せめて食事くらいは一緒に取りたかったとつい恨めしく思う千種であった。
「御台さま、このようなお話をお耳に入れても良いものかどうかと思うのですが」
茜が躊躇いがちに教えてくれたのは、今日の藤の舞であった。あの白拍子たちが何故、将軍頼経の御前で舞いを披露したか。その真の理由はあろうことか、頼経に側室を勧める議だというのだ。
茜は自分が悪いことをしでかしたように声を低めた。
「重臣の何人かが気を利かしてというか余計な気を回してというか、そのような手配を無断で行っていたということのようにございます。恐らく執権どのもご存じはなかったかと」
「そう―」
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ