小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

INDEX|3ページ/106ページ|

次のページ前のページ
 

「いや、残念ながら、淋しい一人暮らしでねぇ、そんなご大層なものを拝ませて貰える機会はなかなかないんで」
「え?」
 男の意味ありげな視線を辿れば、何と露わになった楓自身の白い脹ら脛が見えた。今も彼のまなざしは熱く、楓の脚に注がれている。
「無礼者ッ」
 楓は叫ぶなり、端折っていた小袖の裾を直した。何という憎らしい男だ。そうならそうと、早く教えてくれれば良いものを。
 男は楓の心を見透かしたかのように、肩をすくめた。
「別に俺はあんたに着物の裾をめくって綺麗な脚を見せて欲しいなんざ、これっぽっちも頼んじゃいないぜ」
「―」
 確かに男の言うとおりなので、楓は返す言葉もなく押し黙った。また男がクツクツと忍び笑いを洩らした。
「何ていうのか、大切に育てられた世間知らずの姫さまって感じだな、あんた。俺を無礼者扱いするんだから、相当の家の娘なんだろう」
 男の黒い瞳はどこまでも深く、紫紺の夜空のように澄んでいた。態度は無礼極まりないが、見かけの粗野さは意図的に作られたものであるような気もする。そう感じさせる何かが彼にはあった。
 何故か、この無礼な男に自分の身分も何もかも打ち明けてしまいたい。そんな馬鹿げた衝動に駆られ、楓は男をじいっと見つめた。
 男が照れたように頬を上気させた。
「おい、こっちとら、鰥夫(やもめ)暮らしが長すぎて、女に飢えてんだって言ったろう? そんなに可愛い顔でこちらを見ていたら、頭からがりがりと食べちまうぞ?」
 楓は大真面目に応えた。
「あなたは見たところ漁師のようですが、最近では、漁師というのは魚だけでなく、人間も食べるのですか?」
 しばらく男はポカンとしていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。今度の笑いはなかなか止まらず、しまいには涙眼になってまで身体を震わせて笑っている。
「あなたって本当に失礼な人ね」
 楓が踵を返そうとすると、ふいに手が掴まれた。
「おい、待てよ」
 楓は首だけねじ曲げて振り向いた。
「この手を放しなさい」
 凜とした声音で命じるのに、男が言った。
「誰かと話して、こんなに笑ったのは生まれて初めてだ。あんた、本当に面白い女だな。俺はあんたとももう少し話してみたいんだ。この手を放しても逃げないと約束するなら、放してやる、どうだ?」
 窺うような眼で見つめられ、楓は眼をまたたかせた。星を宿したような漆黒の瞳はどこまでも深く、男が自分に害をなすとは思えない。小さく頷くと、男の手はすぐに離れた。それまで腕に感じていた温もりが消えて淋しいと―一瞬でも感じた我が身が信じられない。
 私はどうかしてしまったとでもいうの?
「あんた、つくづく箱入り娘なんだな。その姫さまが何でお付きもつけずに一人でこんなところに来た? 俺みたいな優しい男に出くわしたから良かったようなものの、とんでもないヤツだったら、それこそ頭からがりがりと食べられてたぞ、あんた」
「私は」
 そこで楓は男が真剣な顔でこちらを見ているのに気付き、うす紅くなった。こんな男に見つめられて自分が紅くなる理由が判らないまま、コホンと小さく咳払いして続ける。
「家出してきました」
 数日と思えるような長い沈黙が続き、男がまた吹き出した。
「家出?」
 楓は頬を膨らませた。
「どうせまた笑い飛ばされるだけでしょう。やはり、帰ります」
 途端に男が狼狽えた。
「悪ィ、別に意味があって笑ったわけじゃない。ただ、何というかだな、何でそもそも家出なんかしなくちゃならないんだ?」
 男が真顔になったので、楓は憤慨しつつも応えた。
「意に沿わぬ縁談を強要されそうになったからです」
 男は実に簡潔に話をまとめた。
「つまりは嫌いな男に嫁に行けと言われた?」
「そのとおりです」   
「相手の名前を聞いても良いか?」
 そこで警戒するような視線を男に向けた。行きずりの漁師にそこまで打ち明けて良いものだろうか。
 が、次の瞬間、楓は極めて自暴自棄な想いに陥った。どうせ、この漁師ともこれが最後なのだから、少しくらい喋ったからとて支障はあるまい、と。
「お相手の名は北条時晴さまです」
 刹那、男の眼が見開かれた。
「そいつは、あんたも因果というか不運だな。北条の若さんの悪逆非道は町ではちょっとした噂になってるほどだからなぁ。何しろ女好きもあそこまで行けば、病気だ。俺の知り合いの妹もあの馬鹿殿に眼付けられて逃げ回るのに必死だったぞ。まあ、そいつの兄貴が遠国にいる遠縁にさっさと妹を預けたんで、事なきを得たけどさ」
「そう―ですか」
 何と返して良いものか判らず、楓は無難に相槌を打った。
「マ、奢る北条も久しからず、だな」
 男は唾棄するように言い、そのときだけ、楓は違和感を憶えずにはいられなかった。夏のきらめく海のように屈託のない男にはおよそふさわしくない投げやりさだったからだ。
 愕いている楓を尻目に、男は質問を続ける。
「あんたを北条に嫁がせようとしているのは?」
「―私の父です」
「そっか」
 彼は得心したように幾度も頷いた。
「あんたの父親の名前はどうやら訊かない方が良さそうだな。天下の北条と縁組みできるほどの家の娘だ、相当の家の姫さまだろう。で、あんたは親父さんの言うなりに、北条家に嫁ぐのか?」
「嫁ぐのがいやだから、家出してきたのです」
「なるほど、こいつは訊くのが野暮だったな」
 男がまた少し笑った。ドキン、と、また楓の胸が高鳴る。
 何故、私はこの男の素敵な笑顔を見ると、ドキドキするのかしら。そこまで考え、ハッとする。素敵? この無礼な男が素敵ですって―。
 楓が一人で紅くなったり蒼くなったりしているのも知らぬげに、男は人懐っこい笑みを見せた。
「だけどな、悪いことは言わない。今日のところはとにかく屋敷に帰りな。親っていうのは子どもは心から可愛いもんだから、あんたが心と言葉を尽くして頼めば、親父さんも理解して諦めてくれるかもしれない。世間知らずのあんたがたとえ屋敷を出たからといって、庇護してくれる男もおらず暮らしてゆけるとは思えねえ。大体、家出するっていいながら、荷物も何も持ってきてねえだろ」
そこで、男が意味ありげな流し目をくれる。
「まァ、俺もそろそろ身を固めたいと思ってたし、あんたがその気なら嫁に貰ってやっても良いけど。夫婦になれば、今夜から、あんたのその抱き心地の良さそうな身体を好きなように―」
 男は皆まで言うことはできなかった。彼は紅くなった頬を押さえ、恨めしげに言った。
「冗談だろ、冗談。この暴力女め。初対面の男をひっぱたく女なんざ、こっちから願い下げだよ」
「私も初対面の女性を相手に下品な冗談を言う男の妻になりたいとは思いませんから!」
 しばらく二人は顔を見つめ合っていたかと思うと、やがて、どちらからともなく吹き出した。
「何か俺たちって、似た者同士かもな」
「ですね」
 楓は頷き、そっと手を伸ばし男の頬に触れた。小柄な楓は背伸びをしなければ、長身の男には届かない。
「ごめんなさい、さっきは痛かったでしょ」
 男がふふっと笑う。
「俺も悪い冗談がちと過ぎたから、お相子だ」
 男の大きな手がそっと楓の手に重なる。
「あんた、優しいんだな。俺は色っぽくて綺麗で優しい女は好きだよ」