華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
よりにもよって、あの方に哀しい別離を告げたその夜、良人と褥を共にしなければならないとは何という皮肉!
御台所のためには特別に檜造りの湯殿が用意されている。満々と湯の湛えられた浴槽にには緋薔薇(ひそうび)の花びらが無数に散っていた。今宵、将軍に抱かれるために、千種の身体を数人の侍女たちが磨き上げる。
湯げむりに浮かび上がった白い裸体は見事なものだった。まだ誰にも摘み取られていない、男に触れられていない身体だ。その引き締まった腰や波打つ豊かな乳房、慎ましい薄紅色の突起、どれ一つ取っても、到底、三十二歳という年齢を感じさせはしない。
若々しく華やいだ美貌と同様、裸になっても、千種の身体は十分に男を魅了するだろう。いや、女の盛りの成熟した色香が咲き匂うように輝き、侍女たちは更にその身体を美しく見せようと風呂上がりには香油を膚に塗り込み、そのままでも十分に可憐な乳首に更に紅粉を刷毛で塗った。
乳首に紅を載せるのは茜の役目であったが、流石にそのときは千種は涙を堪え切れなかった。
「床入りの前には、こんなことまでしなければならないの?」
「申し訳ございません、御台さま。尼御台さまから、そのように仰せつかっております」
更に横たわって脚を開き、すんなりとした両脚の狭間、秘められたあわいの下毛を残らず剃り取った。
「―っ」
これも千種の希望で茜一人がしてくれたけれど―、千種はもうこれが限界だった。
千種は唇を噛みしめて泣いた。これが男に抱かれるということならば、もう二度と繰り返したくない。
政子の意向はよく判る。頼経と自分に十六という途方もない年齢差がある以上、少しでも千種の身体に頼経が興味を持つようにしておきたいのだ。
だが、自分は言うなりになる玩具でも人形でもない。ちゃんと心はある。それを政子は理解しているのだろうか? いや、恐らく理解してはいても、思いやるつもりはないのだ。
恐らく、これが政子の本当の孫、正真正銘の紫姫だったとしても、政子は同じようなことをしただろう。たまたまうり二つで、年格好もまったく同じ、それだけの理由で、千種は紫姫に仕立てられた。だが、政子にとっては、最早、紫姫が本物であろうがなかろうが、どちらでも良いことなのだ。
大切なのは、源氏の血、頼朝の血を引く直系の姫が五代将軍を産むこと。そのためには手段は厭わず、誰を犠牲にしても良い。だが、この計画には最初から無理がありすぎる。そのことに政子ほどの女人が気付いていないのだろうか。
早婚だった時代、女は十代後半で初産を体験し、その後、数年の間に数人を産むのが普通だった。三十歳を過ぎての出産は超高齢出産となり、妊婦にも赤児にも相当の危険が伴う。出産が生命賭け、女の?大役?であり?大厄?でもあった当時、それでなくても危険のつきまとう高齢出産は冗談ではなく死を覚悟せねばならない。
むろん、三十過ぎても易々と出産する女も少なくはなかった。だが、それは既に上の子で出産を経験している経産婦ならばで、初産ともなると話は別だ。
第一、妊娠率も三十過ぎれば格段に下がる。頼経と竹御所の結婚は誰がみても、ごり押しであり無理がありすぎたものだった。
こんな屈辱は二度と味わいたくない。千種は涙を流して初夜を迎える支度にも耐えた。幸い、妻を嫌悪しているという頼経がこの身体に触れることはないだろうし、そうなれば、恥ずかしい姿を晒すこともない。
こんなつまらない女などやはり二度と顔を見たくないと思ってくれた方が千種には好都合といえた。
ただ気まずい相手と背中を向け合い、一晩同じ床で眠るだけ。千種は自分にそう言い聞かせた。
将軍をお待たせしては畏れ多いと早々と寝所に送り込まれた。純白の夜着一枚きりでは、まだこの季節、夜は冷える。千種は我が身を両手で抱きしめた。そうでもしなければ、不安で泣いてしまいそうだった。瞼に隣の居室の様子が甦る。床の間には青磁の大きな壺にあの男から貰った花束が活けてある。
襖を隔てた向こうでひそやかな物音が聞こえた。いよいよその瞬間が来たのだ。千種は覚悟を決め、これから屠られようとする哀れな小動物のように惨めな気持ちで手をつかえた。
ひそひそと囁き交わす声に、若い男の声が混じっている。それが頼経なのだろう。廊下に面した戸が閉まる音、次いで衣擦れの音とひそやかな脚音。だが、千種は知らなかった。襖一つ隔てた居室で、若い将軍の歩みがふと止まったのを。
将軍頼経もむろん着流しの小袖姿だったが、彼は初めて脚を踏み入れた妻の居室を興味深そうに眺めた。女性らしい瀟洒な飾り付けが設(しつら)えられた部屋はやはり、自分のそれとは違う。違い棚にある香炉もすべてが品の良いものばかりで、これまで遠ざけてきた妻が予想外に趣味の良い教養豊かな女性であると知れる。
更にその視線がある一箇所に吸い寄せられた。床の間には壺に活けられた豪華な花が飾られている。
純白の雪を思わせる可憐な小手毬、眼にも鮮やかな橙の山吹、遅咲きの珍しい桜。この花束に頼経には忘れようもない記憶があった。頼経は襖の向こうを見つめた。この先に初めて対面する妻がいる。
もしや―。淡い期待に胸を轟かせて頼経は襖を開けた。
ついに襖が開いた。千種は平伏して頭を垂れたまま、小刻みに身体を震わせた。まさか本当にこの日が来るとは想像だにしていなかった。
―怖い。
それがいちばん正直な気持ちに近い。よもや将軍がこの身体に指一本触れることはないと思うけれど、見知らぬ男と間近で一夜を過ごすだけでも十分に怖ろしい。
「先に床に入っていれば良いものを、震えているではないか」
降ってきた声音は意外に思いやりに満ちたものだった。
「ずっと待っていたのか?」
優しい声が近づき、千種の背中に手が回った。
―どうして?
何故、いきなり頼経が自分の身体に触れてくるのか理解できない。しかも、戸惑う千種をよそに、背に回された手にはますます力が加わり、その強い力で抱きしめられた。
「貌を見せてくれ。そなたの貌が見たい」
だが、怯えてしまった千種は到底貌を上げることはできなかった。
「貌を見せるように。これは命令だ」
強い口調で言われても従わなかったので、今度は両頬に手を添えて強引に仰のけられた。
男の漆黒の瞳に、千種が映り込んでいる。しかし、それ以上に千種は驚愕し、息を呑んだ。あの男―生涯で初めて好きになったひとが間近にいた。今、大好きな男の瞳に映っているのは紛れもない自分だ。
「千種、やはり、そなただ」
あの男と同じ貌をした将軍が嬉しげに自分の名を呼ぶ。それを千種は夢の中の出来事のように感じていた。
「先ほど、そなたの部屋に飾っていた花を見た時、おかしいと思ったんだ。あれは私がそなたに与えた花とまったく同じだった! まさか貌も見ずに過ごしてきた妻が千種だったなんて、考えてみたこともなかったよ」
閨に二人きりのせいか、言葉遣いも多少砕けたものになっている。が、そんなことを悠長に感じてはいられなかった。
いきなり褥に押し倒され、千種はハッとして眼を見開き我に返った。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ