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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「随分とたくさんの花があるな。これは、小手毬か?」
 籠には山吹や遅咲きの桜とさながら宝石箱のような美しい色合いを見せていたが、彼の眼を引いたのは純白の小さな花が群れ咲く小手毬のようだった。
「はい、若さま。お連れのお綺麗な奥さまにいかがですか? 女っつうものは幾つになっても、惚れた男から花を贈られるというのは嬉しいもんですよ。このあたしの歳になってもねぇ」
 腰の曲がった花売りは欠けた前歯を見せてニッと笑う。
「お、奥さま?」
 流石に彼の貌が引きつった。千種ははらはらしながら傍で二人のやりとりを見守っている。幾ら何でも、奥さま呼ばわりでは、彼も気を悪くしたのではないか。
 が、男は次の瞬間、嬉しげに笑った。
「そうか? そなたには千種と私が夫婦(めおと)に見えるというか」
 怜悧に見えても、こういうところが苦労知らずの坊ちゃん育ちなのだろう。すっかり気を良くした彼はどう見ても、花代には過分すぎる代金を老婆に払っている。
「こんな綺麗な奥さまをお貰いになって、旦那さまはお幸せだねぇ」
 これは明らかにお世辞だろうのに、真っ赤になった彼は結局、老婆の花かごにある花ごとすべて買い取ることになった。
 老婆はほくほくと空の籠を背負って帰ってゆく。さぞおだて甲斐のある若さまだと思ったことだろう。
 半ば呆れて見送っていると、機嫌の良い声が千種の耳を打った。
「千種、これを貰ってくれ」
 眼前には、両手に抱えきれないほどの色とりどりの花を抱えた男が立っている。
―そんなにたくさんの花を一体、どうするおつもりなのですか?
 言いかけて、千種は言葉を飲み込んだ。
 彼の秀でた貌には満面の笑みが刻まれている。邪気のない笑顔は心底嬉しげで、屈託のない伸びやかな表情がそのまま十六歳という若さを示していた。
 この方はまだ本当にお若いのだとつくづく思わずにはいられない。頼経という良人のいることもだけれど、もし、彼が千種の本当の歳を知れば、彼はどう思うだろう。きっと騙したと怒る以上に、年齢をごまかしてまで彼と逢い続けようとしたことをさもしい女だと思うに違いない。
 彼に嫌われたくないという想いがどうしても、真実を告げようとする口を塞いでしまう。
「私の未来の妻、花嫁に」
 彼は満面の笑みを湛えたまま、彼女に腕一杯の花束を渡した。花束を受け取った瞬間、様々な花の香りが混じり合った芳香がふわりと千種を包み込んだ。
―こんなにもたくさんの花を一度に手にしたのは初めてだわ。
 呆気にとられつつも、瞬時に嬉しさが込み上げ、泣き笑いの表情でそれを大切に腕に抱いた。
 純白の小手毬、鮮やかな朱(あけ)の山吹、殆ど白に近い淡い桜。花束を抱えた千種はまさに花に埋もれたように見える。
 男は千種を感じ入ったように眺めた。
「美しい。まるで百花の精のようではないか。そなたの両親がそなたを見て千種と名付けたのも判るような気がする」
 彼は満足げに頷き、法外な褒め言葉に千種は頬を染めた。
 巨大な花束を抱えて歩く千種を行き交う人が物珍しげに振り向いていく。千種は恥ずかしいのだが、どうも憂き世晴れしている彼はいっかな視線が気にならないようである。よほどの深窓の貴公子なのだろうか。
 しばらく二人は無言で歩いた。頬を撫でて吹きすぎてゆく初夏の風が火照った頬に心地良い。身体がいつになく熱いのは、きっと、この方がすぐ傍にいて大好きな男の温もりを感じているから。
 黙っていても、気まずさは微塵もない。二人で共有する時間がまたとない貴重なものに思えた。その沈黙が突如として途切れた。
「千種、先日の話だが」
 切り出され、千種は眼をまたたかせた。
 男はうつむき、また貌を上げて言う。
「私の許に来るという話、もう一度考えてみてはくれないか? 正妻がいるというのは真だ。そなたを側室としてしか迎えられぬことにも変わりはない。だが、大切にする、必ず幸せにすると誓う。与えられた妻との縁も無下にするつもりはないが、私は生涯を共に歩く女は自分で見つけたい。そなたにずっと私の傍にいて欲しい」
 男の声が少し低くなった。
「この十日間、私はずっと、そなたのことばかり考えていた。一度は諦めようとしたが、どうしても諦め切れなかった。私は強引にそなたをこのまま我が屋敷に連れ帰ることもできる。そなたが幾ら拒んでも、私の女とすることはできるのだよ。けれど、それだけはしたくない。初めて好きになった女だから、ちゃんとした手順を踏んで納得して来て貰いたい」
「それは―無理です」
 唇が震えた。出かける間際、鏡を覗き込んで何度も塗り直して珊瑚色の紅を載せたのだ。
「何故!?」
 男の烈しいまなざしが、声が千種を絡め取る。到底、受け止められなくて、千種はおずおずと眼を伏せた。
「私には」
 そこで言葉が途切れた。言うなら、今この瞬間をおいてしかない。いつまでも隠し通せるものではなく、また、将来ある身の彼を共にいたとしても未来のない自分のような女に引き止めておくこともできないのだ。
 そう、夢はいつか醒めるときが来る。千種は深呼吸した。
「―良人がおります」
「―!!」
 刹那、男の貌が強ばった。伸ばそうとした手が宙をかき、虚しく落ちた。
 千種は涙を堪えて懸命に笑顔を作った。
「申し訳ございませんでした。どうしても申し上げられなかったのです。あなたと過ごす刻があまりにも愉しくて、我を忘れるほどに。私もこの歳であなたさまが初めてお慕いした方でした。何と申し上げてもお詫びはできませんが」
 千種は男の貌を見た。品のある端正な面立ち、この貌を永遠に忘れないように記憶にとどめておこう。彼と過ごしたわずかなひとときをこれから生きてゆく余生の宝物にしよう。
 涙が次々と頬をつたう。
「お達者で」
 深々と腰を折り、踵を返した。その背に男の切なげな声が追いかけてくる。
「そなたを良人たる男から奪うことになったとしても、私は諦め切れない」
 千種はそれ以上聞いていられず、小走りに駆け去った。
 御所までの道のりをどのようにして帰ったのかも憶えてはいない。いつも抜け出すときは裏門から出入りしている。茜に借りた袿を頭から目深にすっぽりと被り、用足しに行く侍女のふりを装うのである。
 常のごとく警護の者に軽く会釈し、庭を通り抜けて御台所の居室前まで来たときである。茜がそわそわと廊下を行きつ戻りつしているのが見えた。
「茜!」
 それ以上は言えなかったが、暗に眼で伝えたつもりだった。
―そのようなところにいては駄目じゃない。
 が、茜はそれどころではない様子で、階をまろぶようにして降りてきた。
「御台さま、かように悠長なことを仰せになっている場合ではありません」
「どしたの、何かあった?」
 いつもは滅多ことで取り乱さぬ茜が興奮した面持ちで告げた。
「今宵、御所さまからお召しがございました。尼御台さまがおん直々に御所さまをご説得なさったと聞き及びおります。御台さまもそのおつもりで、これより湯浴みしていただきます」
 千種の腕から後生大切そうに抱えていた花束がバサリと音を立てて落ちた。
 良人頼経が今宵、御台所鞠子の寝所に渡る―、それが事実上の初夜になることを当人である千種が嫌というほど知っている。