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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 彼もまた困ったような嬉しいような奇妙な表情で千種を見ていた。やがて、次の瞬間、二人を取り囲む刻がピタリと止まった。鳴り響いていた潮騒はふっとかき消えた。
 ふと我に返った瞬間、千種は彼の腕の中にいた。もののふらしい、鍛え上げた彼の身体はもう少年ものではなく、立派な大人のものだった。
 静かに唇が降りてくる。しんと冷たいようでいて、ほのかな危うい熱を帯びている彼のの唇を受け止めながら、千種は幸せな夢の中を漂っていた。
―今だけは、せめて夢を見させて。自分ではない他の人間として生きるしかない私に仏さま、この一瞬だけでも?千種?として恋をさせて下さい。生まれて初めて好きになった男の腕の中でだけは、私は元どおりの河越康正の娘千種としていたいのです。
 将軍という至高の位にある良人を持ちながら、若い男と恋に落ちる。それがどれだけ罪深いことなのか、千種はいやというほど理解していた。
 そして、彼にも妻がいるという、親が決めた形だけの妻。彼と彼の妻はまるで、千種と頼経のようだと思った。頼経と千種、彼と貌も見たことのない彼の妻。まるで合わせ鏡を見るかのように、自分たちふた組の夫婦は似ている。
 どちらも良人と妻でありながら、互いに関心を持たず、一生を無為に過ごすさだめなのだ。頼経の妻として生きる自分も、彼の妻として生きるしかない女も、どちらもが哀れな境涯としかいえない。
 大好きだから、千種は最後に断れなかった。彼から?また今度、必ず逢えるね??と、期待に満ちた貌で囁かれた時、つい頷いてしまった。
 その約束が彼との危うい恋の始まりになる―はずだった。だが、運命はまたしても思いもかけない場所へと千種を連れてゆく。そのことが千種に知らされるまでには、まだあと少しの刻を待たねばならない。

 逢瀬と初夜の真実

 その日、鎌倉の空はからりと晴れ上がり、気持ちの良い初夏の一日が始まろうとしていた。今日という日はまだ生まれたての赤児のようで、市(いち)が賑わい始めるには少し時間がある。
 それでも、気の早い人々は目抜き通りの両端に軒を連ねた露店で様々な品を物色している。声高に野菜を売る男、古着を並べて、これから商いをしようかという女。そんな人々の姿を、千種は少し離れた場所に佇み、興味深く眺めていた。
 あの不思議な男―蛸入道から千種を助けてくれた若者と出逢ってから十日を経ている。
―また今度、必ず逢えるね?
 千種は誘惑に満ちたあの誘いをどうしても断ることはできなかった。
 敢えて名前は訊ねることはしなかったけれど、立ち居振る舞い、身なりから相当の地位にある武士だとは察せられた。幕府に拘わる人であることは確実で、そのような男においそれと名を訊かない方が賢明だと判っていた。
 見るとはなしに市の雑踏や賑わいを見ていると、背後からそっと眼隠しをされた。
「来てくれたんだな」
 二度めに逢うひとで、まだ何も知らないのに、ひどく懐かしい想いのするひと。千種もまたそっと眼を覆った大きな手のひらに自分の手を重ねた。重なり合った手のひらから伝わる温もりがとても愛おしいものに思える。
「はい、ちゃんと参りました」
 明るい声音で応えると、すぐに目隠しが外された。千種はくるりと回り、逢いたくて堪らなかった男を見上げた。
―我らが初めて出逢った場所で。
 十日前、彼はそう告げて去っていった。時間は朝の早い中とだけ言われていたので、千種は自分でもいささか滑稽だと思えるほど早くに御所を抜け出してきたのである。
 万が一、時間に遅れて彼に逢えなかったときの落胆を思えば、待つ時間など何ほどのものでもない。
 千種は今日の自分が彼にどのように見えるか、心配だった。御所を出る前にも、たくさんの小袖を居間中に並べて、仲の良い若い侍女と一緒に、あれでもないこれでもないと選んだのだ。
 その侍女茜の協力があればこそ、厳重な警護をかいくぐって抜け出すこともできるのだ。流石に御台所ともなれば、河越の千種であったときのようにはいかない。
―この萌葱色の小袖などは御台さまによくお似合いでございますよ?
 結局、茜が勧めてくれた小袖を身につけてきた。だが、送り出す茜はいつものように明るい笑顔ではなかった。
―御台さま、ご無礼を承知で申し上げますが、よもや御所の外で殿方とお逢いになるのではないでしょうね?
 もちろん、千種はすぐに否定した。
―そんなはずがないでしょ。私にはれきとした頼経さまという方がいらっしゃるのだもの。
 言いながら、虚しさが心に満たしてゆくのをはっきりと自覚していた。夫婦となって四年を数えながら、貌を見たこともない良人に操を立てる必要があるのだろうか。そんな反発めいた気持ちもあった。
 頼経は今年、十六歳になった。十六歳といえば、微妙な年頃である。身体は殆ど大人として完成されているけれど、心の方が身体の急激な成長に追いついてゆけてないという時期だ。高貴な立場、しかも将軍という一日も早く後継を儲けねばならない身であれば、そろそろ側妾を置いてもよい歳でもあった。
 引き合いに出すのも畏れ多い話ではあるが、後鳥羽院は十五歳でいきなりほぼ同時に二児の父となっている。二人の年上の中宮たちが次々に身籠もったのは院がまだ十四歳のときであったという。早婚が当たり前であった当時、貴人が早くから妻妾を侍らせ子を儲けるのは特に珍しいことではなかった。
 頼経が十六歳も年上の御台所に見向きもしない今、実のところ幕府内でも頼経に見合った年頃の若い娘を側室に勧めては主張する重臣もいるとか。
 それは致し方のないことだと千種は思った。三代実朝の死後、頼経は幕府が懇願して招来した将軍だ。襁褓の中から政子が大切に育て上げ、漸く十六歳になった。その頼経に是非、次の後継者を儲けて欲しいと願うのは無理もない。御台所である自分は年齢を考えても、その役割を果たすことは最初から無理がありすぎた。
 頼経に似合いの若い姫が自分に代わりその役割を果たしてくれるのならば、千種には何の不平もない。御家人たちの中には
―御所さまが生まれ故郷の都をおん恋しく思し召すのであれば、京から公卿の姫君をお迎えしても良いのではないか。
 と訳知り貌で言う者すらいた。
―さりながら、二代頼家公のご息女竹御所さまがご正室としておわすのに、わざわざ京から公卿の姫君を迎えたのでは、竹御所さまを侮辱することになる。
―そうは申しても、御所さまもおん歳十六。そろそろ御子を儲けられても良き頃合い。しかも、三代実朝公の御台所はやはり都からお迎えした坊門家の姫君であられた。先例のあることゆえ、四代めの頼経さまの側室として都の姫君をお迎えしても差し支えはなかろう。
―だが、よくよく考えてみなされ。実朝公は自ら京の姫君を望まれ、万事公家風を好まれて、ご自身も右大臣にまで昇られたが、その挙げ句がお労しくも鶴岡八幡宮で公暁さまに弑(しい)し奉られた。武門の棟梁は都の公家とは違う。公家の真似をしても、ろくなことにはならぬぞ。
 などと、十六歳になった頼経の女性関係について、重臣たちは囁き交わすことも増えていた。