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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 彼は嘆息するように言い、小さく首を振った。
「つまぬ話であろう? このような話をしても、女人は歓ばぬな。何ゆえ、私は女に気の利いた科白一つも口にできないのか」
 男が自嘲するように言った時、千種は微笑んだ。
「そのようなことはございません。私もあなたさまと同じように思います。例えば、私がこの世からいなくなっても、あなたさまはここに来れば変わらぬ海を見ることができましょう。私があなたさまの傍から消えたしても、由比ヶ浜も鎌倉の海も空も何一つ変わりませぬゆえ。やはり自然は偉大だと思います」
 男がふいに千種を見た。
「何故、そなたはそのように哀しいことを言うのだ」
 千種が小首を傾げるのに、彼はやや強い口調で言った。
「二度と私の前から消え去るなどと不吉なことを申すな」
 男の黒い瞳が懇願するように見つめている。
「―頼むから」
 その懸命な瞳に、千種は我知らず頷いた。
「はい、あなたさまが厭だと仰せなら、二度と申しません」
 男はしばらく千種を複雑そうな表情で見つめていた。千種にはその瞳の奥底に宿るものが何なのかは判らない。
 寄せては返す波頭(なみがしら)が白い砂を洗い、海鳴りの音だけが静かに響いている。この音に耳を傾けていると、何故か心の奥底がざわめき、泡立つようだ。けして不快というわけではないが、何ものかにせき立てられるような、自分の続けている人生という旅がもうすぐ終わろうとしているような気がしてならない。
 だから、無意識の中にこの男に?私があなたの傍からいなくなっても?などと口走ってしまったのかもしれない。
 子どもの頃から慣れ親しんだ海鳴りは、千種にとっては身近なものだ。普段は耳にするとかえって、ざわめく心も落ち着くほどなのに、今日に限って妙なこともあるものだ。
 彼はしばらく海鳴りの音を聞いていたかと思うと、突如として静寂を破った。
「そなたは、どこの家の娘か? いずれ名のある武門の姫と見たが」
「私は」
 千種は言いかけて口を引き結んだ。素性が明かせるはずもない。将軍の妻だなどとは口が裂けても言えなかった。
 そんな千種を見て、男が吐息混じりに言った。
「正直に言う。私は世の他の男たちのように、息をつくように嘘はつけぬ性分だし、そなたに嘘はつきたくない」
 更に男は息を吐き出し、雑念を振り払うように、ひと息に言った。
「そなたを妻として迎えたい。だが、私には既に親の決めた妻がいる。仮にそなたが私の許に来てくれたとしても、正式な室として迎えることはできない。申し訳ないが、側室としてしか迎えられぬ。だが、これだけは信じてくれ。妻とは形だけの夫婦なのだ。そなたを迎えることができれば、私の心はそなただけに与え、他の女は傍に置かない」
 刹那、落胆が由比ヶ浜に打ち寄せる波のように千種の心を満たした。
「そう―なのですね」
 三十二年の人生で初めて好きになった男には、既に妻がいた。何という不幸な女なのだろう、自分は!
 千種の瞳に熱い涙が溢れた。千種はこれまで特に自己憐憫に浸る性格だと自分を思ったことはないけれど、今このときばかりは自分があまりに哀れに思えてならなかった。
 男が慌てた。
「済まぬ、また泣かせてしまったな。私は本当に、どうしようもない男だ。出逢ってからまだまもないのに、そなたを泣かせてばかりではないか。やはり女房持ちの分際で、そなたを欲しいなどと申したので、気分を害したのであろう?」
 千種は何も応えられなかった、応えられるはずもかった。この男に既に妻がいると知り、衝撃を受けたのは事実だけれど、本来なら、千種は彼を非難したり落胆したりは出来ない立場なのだから。千種にも頼経という良人が、鎌倉どのという至高の地位にいる良人がいる。
 まだ見たこともない年若い良人、千種を嫌い、妻に興味を持ったこともない形だけの良人が。頼経は源頼朝の同母妹を曾祖母に持っている。それが、彼が四代将軍の後継として選ばれた第一の理由であった。
 天皇家に最も近いといわれる摂関家の子息として生まれ、幼くして鎌倉に下って将軍となった貴公子であり、千種が河越康正の娘として過ごしていたならば、生涯近づくこともできない尊き身の人であった。
 何の因果か、数奇な運命で紫姫の身代わりとなり、千種であることを棄て?源鞠子?ととして生きることになった。だが、竹御所という尊称も鞠子という名もすべては紛いものにすぎない。そのことを当人である千種が誰よりも知っている。
 優しい彼は困ったように泣いている千種を見ている。彼がこれ以上、無理強いするような男ではないことを千種は確信していた。
「判ったから、泣かないで。そなたが厭だというのなら、無理は言わない。だが、それなら、せめて名前と歳だけでも教えてくれ。むろん、親の名前は言わなくて良い。ただ、名前だけでも知りたい」
 それでも千種が何も応えないので、彼は困惑したように眼を伏せ、それから開いた。
「歳は、そうだな、二十一、二ほどか? 私より年上であることは何となく判ったが、さほどの差はないであろう。名前は―」
 千種をしげしげと見て、優しい笑みを浮かべる。
「流石に名は思いつかない」
 千種はどうしても言えなかった。本当はあなたが考えているよりもずっと年上の、とうに盛りを過ぎた女なのですとは。千種は小柄で童顔ゆえ、人によっては随分と若く見られることは知っている。彼が幸運な誤解をしてくれたのを良いことに、千種は年齢については黙っていることにした。
―せめて、夢ならば、嘘をついていても良いでしょう?
 千種は自分で自分に言い訳した。これは、いつか醒める夢、幸せな夢なのだ。紫の身代わりとなって将軍家に嫁いだ我が身が生まれて初めての恋をして、その好きになった男からも妻に望まれた。
 こんな幸せな夢があり得るだろうか? 
 そして、これが夢だと知りつつも、ずっと醒めないでいて欲しいと願う欲張りな自分もいる。
 今なら、そう今なら、自分の真の名を告げても構いはしないだろう。だって、これは幸せな夢の中の出来事で、この夢はいつか醒めるときが、終わりが来るのだから。
 千種は息を吸い込んだ。濃厚な潮の香りを胸一杯に吸い込む。
「千種と申します」
「―千種」
 彼は千種、千種と幾度も呟いた。何故なのか、大好きな男が自分の本当の名前を囁くだけで、こんなにも嬉しい。涙が溢れくるくらい幸せだ。
「良き名だ。千種とは、恐らく、たくさんの花を意味するはず、様々な表情を見せてくれるそなたには、ふさわしい」
「たくさんの表情?」
「泣いたり笑ったり怒ったり、歓んだり、忙しい。だが、私はそなたの―千種のどの表情も凄く好きだ」
 好きなひとに率直に好きだと言われることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。じんわりと温かな雫が眼に盛り上がり、もちろん、彼は大いに狼狽えた。
「また泣いている! 今度は何がいけなかったのだ。ええい、この頭は飾りものか。何故、私は好いたおなごを歓ばせることすらできないのか」
 また髪をかきむしっている彼を見て、千種は涙を零しながらも笑った。
「何だ、やっぱり泣いたり笑ったりと忙しいな、千種は」