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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「それは判らぬ。眼の前の女に下心を抱いているからと申して、すべての男が女をいきなり押し倒すわけでもなかろう。では、もう少し判りやすく言い換えよう、下心ではなく興味だ。もちろん、興味の中には下心も含まれていようが、この際、大雑把に興味と言い換える」
 大真面目に講釈を始める男を、千種は笑顔で見つめた。
「随分と確信を持った言い様をなさいますのね」
 しばらく沈黙があった。何か機嫌を損ねることを言ってしまったのかと千種が不安になり始めた頃、男が呟いた。
「私自身がそうだからだ」
「え―」
 思いもかけぬ話の展開に、千種はついてゆけない。
「それは、どういうことなのでしょうか?」
 これ以上、鈍い女だと思われたくはないけれど、本当に科白の意味が判らないのだから仕方ない。
 男が焦れったそうに千種を見た。
「ああ、本当に鈍い女だな。男がこれだけ言えば、判りそうなものを」
 彼の千種の手を掴む力がまた強くなった。グイグイと引っ張られるように歩く。どれほど歩いたのか、気が付いたときには町を抜け、眼前に海がひろがっていた。
「由比ヶ浜」
 吐息のようにかすかに零れ落ちた呟きは、絶え間なく続く海鳴りに忽ちにしてかき消された。
 はるか前方に、何やら小屋らしきものが見えている。男はその方向を指した。
「行ってみよう」
 千種の返事を待つつもりはないらしく、一人で歩いてゆく。千種は慌てて後を追った。
「私もそなたと同じだ」
 男が唐突に立ち止まり、振り返った。千種は息を呑んで、彼の次の言葉を待つ。
「何が同じなのですか?」
 またしても謎かけのようなことを言われ、千種は涙ぐんだ。今し方も?鈍い女?と言われたばかりだ。また今度もで、これでは早々に愛想を尽かされてしまうに違いない。
 振り向いた男は千種の涙を見て、狼狽えた。
「どうした! 私が何か酷いことを申したか?」
 千種は無理に微笑んだ。こんなことで涙をみせるなんて、余計に鬱陶しいと思われるだけだ。何故か、この男には嫌われたくない。
「ああ、本当に私は、どうしようもない男だな」
 端正な風貌には似合わず、両手で髪をかきむしった。
「済まぬ、私は本当に朴念仁で、実のところ、おなごを歓ばせる歌の一つも詠めぬのだ。これで公卿の血を引いているというのだから、自分でも信じられない。幼いときから武門の跡取りとして育てられたせいで、どうも武芸しか能のない武辺者になってしまった」
 彼はまだ一人でぶつぶつと言っている。
「こんなことなら、女を口説く和歌の一つでも日頃から用意しておくのだった」
 男が懐から手巾を出して、千種の眼尻に堪った涙をぬぐった。
「泣くな、私はそなたの泣いた顔は見たくない。そなたには、いつも笑顔で居て欲しいのだ」
 話している中に、いつしか二人は件(くだん)の小屋の前で来ていた。それは家というよりは、かつては家だったのであろうという方がふさわしかった。朽ち果てた小屋がぽつねんと浜辺に取り残されたように建っている。
「もう一度訊くが、私が何か粗相をしたのなら、教えてくれ」
 千種は潤んだ瞳で首を振る。男が参ったというように天を仰ぐ仕種をした。
「ああ、その顔はいかん。そんな眼をして男を見ては、男の下心もとい興味はますます募るばかりだ」
 千種はまたしても意味不明の言葉を呟く男に微笑みかけた。
「違います。私があなたさまに嫌われたのだと思って―」
 と、男は愕いたように仰け反った。どうも見かけによらず、剽軽な男のようである。いちいち仕種が大仰すぎる。
「私はそなたを嫌ってなどおらぬ。むしろ、その逆だ!」
 言ってから、慌てて口を押さえた。わざとらしい咳払いをして、彼は更に続けた。
「泣いたのが私のせいでなければ良いのだ。おお、そうであった、先刻の話の続きであったな。私がそなたと同じだと申したのは、ほれ、息が詰まりそうになると、こうして屋敷を抜け出して外に出ることだ」
 あ、と、千種は声を上げた。その表情に、男はニッと笑う。
「であろう?」
 屈託なく笑うと、大人の仮面が外れ、無防備で無邪気な素顔が現れる。この笑顔で、千種は男が二十歳よりはかなり若いのであろうことを再確認した。
「私もそなたも屋敷暮らしが窮屈になれば、人知れず抜け出して町に出る。似た者同士だ」
「そうですね」
 今度は意味が理解できたので、千種も素直に頷いた。
 男はうーんと気持ち良さげに両手を伸ばし、のびをする。天を仰ぎながら、彼は言った。
「今日も鎌倉の空は蒼く、海も空に負けないほどに蒼い。私は元々、鎌倉の生まれではない。京の都で生まれて、まだ赤児の時分に鎌倉の地に来た。鎌倉の者ではないが、暮らした年月はここが長いのだ」
「鎌倉はお好きですか?」
「ああ」
 彼は依然として空を仰ぎ見ている。千種もつられるようにして空を仰いだ。抜けるような空はそっくりそのまま鎌倉の海を写し取ったようだ。どこまでが空で、どこまでが海なのか判別がつかない。
 どこまでも蒼い大海原のような空に、白い絵の具をそこだけ落としたようにカモメが浮かんでいた。
「鎌倉は良きところだ。様々に美しきところがある」
 つと振り向き、彼は笑顔になった。整った面に悪戯っぽい微笑が浮かぶ。
「私がそなたに見せたかったというのは、この海、私の大好きな鎌倉の美しき海だったのだよ」
 刹那、胸に湧き上がった想いをどのように形容すれば良いのだろう。このひとが私に自分の好きな海を見せたいと言ってくれた。歓びが千種の胸を軽やかに駆け抜けた。
「空気も新鮮だし、都と異なり、海も近い。そなたのような美女もいる。―好きだ」
 最後は真正面から見つめられて言われ、千種は紅くなった。
―馬鹿みたい。この方は鎌倉が好きだとおっしゃっただけなのに、まるで自分が告白されたみたいに頬を熱くするなんて。
 慌てて自分を戒めてみたけれど、一度高鳴った胸の鼓動はなかなかおさまってくれなかった。
 男は視線を千種から荒れた小屋に移した。
「誰が住んでいたのであろうな」
 その言葉に、千種も朽ちた家の残骸を見る。かつてその家に人が暮らし、笑い声が響き、人の営みがあったはるか昔を偲ぶかのような想いで見つめる。よもや、そのうち捨てられた小屋が貌も見たことのない大叔父の娘、楓とその良人時繁の暮らしていたものだとは知る由もなかった。
 楓と時繁が鎌倉を去って三十数年の星霜を重ねている。時はただ茫々と大海のようにこの小さな小屋の傍を通り過ぎ、流れ去った年月から無残に取り残されて小屋だけがかつてを忍ぶよすがもないほどに変わり果てた姿を見せている。
 何かとても物哀しいような、厳粛なような気持ちを千種が感じたのも、ここに身内である楓が暮らしていたことを敏感に察知していたからだろうか。その想いを彼女は、かつてここで懸命に日々を紡いでいた人たちを想いながら小屋を眺めるからだろうと考えた。
 男が小屋を眺めながら、しみじみと言った。
「自然は凄いなと思うときがある。時の流れの中で、我ら人間はいつかこの世から消え去るが、海はいつまでも変わらずここにある。かつてこの小屋に暮らしていたであろう人々はいなくなっても、恐らく海はその頃と寸分違わぬだろう」