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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「性懲りのないヤツだ」
 若者は呆れたように言い、刀を元に戻し、大男が震えながら差し出した財布を受け取った。
「真っ当に生きろよ」
 若者の言葉を背に受け、蛸男は逃げるように往来を行き交う雑踏に紛れ込んだ。
「これで良いのか?」
 男が渡してくれた巾着を、千種は押し頂いた。
「ありがとうございます。助けて頂いた上に、余計なお手間までかけてしまいました」
 男が破顔した。
「何の、私の方こそ役得だ。こんな美人にめぐり逢えるとは」
 そのひと言に、千種の頬が染まった。どうも、若い男からの直截な褒め言葉には慣れていない。
 鎌倉は今が春の盛り、名所と呼ばれるあちこちで桜が満開になって人々の眼を愉しませている。
 うららかな春らしい穏やかな陽光降り注ぐ中、ひらひらといずこから流れてきたものか、薄紅色の花びらが二人の間を漂っていく。
 それにしてもと、千種は男を見つめた。年の頃は二十歳前後だろうか。老成した雰囲気を纏っているが、落ち着いた表情の合間に時折覗く素顔はまだ少年の面影を濃く宿している。もしかしたら、大人びた見かけよりは少し若いのかもしれない。
 男が身分のある武士なのは明らかであった。上等の直垂(ひたたれ)は渋みがかった緑だ。男の清冽で端正な風貌をよく引き立てている。
「言いにくいことを申すが、そなたは質素ななりをしているが、かなりの家の娘御であろう? 身分のある女性(によしよう)が伴の一人も連れず、町を歩くのは、どう考えても無謀すぎる」
 何故、露見してしまったのかと狼狽えて彼を見つめると、何故か男は眩しげなものでも見るかのように眼を細めた。
「人というものは幾ら上辺を取り繕っても、内側を隠すことはできない。そなたは市井に暮らす娘を装っていても、その物言いや挙措に隠すことのできない品が現れている。それでは、身分のある武家の姫であることが丸分かりだ」
「そう、ですか」
 自分では上手く変装しているとは信じていたが、どうも見る眼のある人には判ってしまうようである。千種はかなり落ち込んだ。
「もし、あい済みませんが」
 その時、遠慮がちに声をかけてきた者がいた。あの猿の大道芸を見物していた商人である。
「ああ、これを返して頂きました」
 千種は巾着を差し出し、微笑んだ。と、中年の商人は耳まで紅くなり、慌てて懐から小さな品を取り出した。何かと思っていたら、飾り紐だ。深紅と深緑の紐を寄り合わせて作った美しい組紐は髪飾りに使えそうである。
「私は小間物の行商をしておりまして、時には市で露店も出しております。女人の歓ぶ様々な品を扱うておりますれば、機会があれば是非ともお立ち寄り下さいませ。これは、ほんのお礼に」
「綺麗だわ。本当に頂いて、よろしいのですか?」
 商人は満面の笑みで頷く。
「もちろんですよ」
「ありがとうございます」
 千種が笑顔で礼を言うのを何故か、傍らで若者は面白くなさそうに眺めている。
 と、商人が思い出したように言った。
「失礼ながら、お名前とお住まいをお訊ねしても?」
「え―」
 その問いには千種も返答に窮した。
 そこに割り入ったのは例の若者だった。
「そなた、無礼であろう。この娘は私の許婚者である。他人の女に手を出すとは許せぬ」
「さ、さようでございましたか」
 商人は仰天し、若者に頭を下げた。
「そのような間柄とは知らず、とんだご無礼を致しました。されど、是非、一度、店の方にもお運び下さいませ」
 最後は千種に愛想よく声をかけ、丁寧にお辞儀をして去っていった。
「面白うないのう」
 若者は呟くと、ぶっきらぼうに言った。
「そなたに見せたいものがある。ついて参れ」
「でも」
 逡巡を見せた千種に、彼は不機嫌そうに言った。
「私は先刻の不埒者とは違う。真っ昼間から無抵抗な女を手籠めにしたりはせぬ」
 いささか乱暴に手を掴まれ、引っ張られる。千種は仕方なしに、彼についていった。どう見ても、この若い男が千種に危害を加えたり乱暴な真似をするとは思えない。先刻、助けてくれたばかりではないか。それどころか、財布まで取り返してくれた。
 男は早足で歩くので、小柄な千種は付いてゆくのに精一杯だ。ややあって、小さな声で言ってみた。
「あの」
「何だ?」
「もう少し、ゆるりと歩いては頂けませんか? それに、手が痛いのです」
「そうか?」
 男は愕いた表情で、慌てて千種の手を放す。掴まれた手首には、くっきりと紅い跡が残っていた。
「済まない。それほどきつく握りしめたつもりはなかったのだが、これでは痛かったであろうな。許せ」
 物言いはどことなし居丈高だが、素直な性分であろうことはすぐ判った。恐らく、大切に育てられた御曹司なのだろう。先ほど、どれほど身をやつしても正体は内側から滲み出ているもので判ると彼自身が言ったように、この男もまた生まれ持った気品というのは隠し切れていない。
 幼い頃から武芸はみっちりと仕込まれたが、苦労知らずの坊ちゃんといったタイプだ。
 男がおずおずと手を出してきた。
「今度は強く掴まないから、もう一度」
 手を出せということなのだろう。御曹司の若さまだから、他人に命令ではなく願い事をするということに慣れていないのだ。むろん、見も知らぬ出逢ったばかりの男と人前で手を繋ぐという親密な行為をすることに抵抗がないわけではなかった。
 が、普段、命令することしか知らない男が懇願するような必死さで頼んでいるのにも心動かされた。何より、千種自身が彼ともう少し手を繋いでいたいという想いを振り払えなかった。
 そこまで考えて、千種は真っ赤になった。
 私ってば、何をはしたないことを考えているの!
 形ばかりとはいえ、自分には頼経という良人がいる身ではないか。なのに、見も知らぬ男に出逢ってすぐに胸をときめかせるなんて、恥知らずも良いところだ。
 それでも、二人は手を繋ぎ、今度は彼も千種の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。時折、振り返り、千種の様子を確かめることも忘れない。気遣いのできる優しいひとでもあるのだろう。
 男がポツリと言った。
「先ほどは失礼した。あの商人に、そなたを許婚と言ってしまった」
「はい、いいえ」
 どう応えるべきなのか判らない。許婚だときっぱりと宣言され、どこかでもくすぐったいような嬉しいような気持ちもあったからだ。だが、良人のある身で所詮、それは許されぬことでもある。千種は、とんちんかんな返答をし、男が笑った。
「どうしてかな、あの小間物屋がそなたに色目を使うのを見るのが腹立たしくてならなかったのだ」
 千種は眼を丸くした。
「色目ですか? まさか、あの方はそんなおつもりはなかったと思いますけど」
 男はあからさまに落胆の貌で千種を見た。
「そなたは臈長けた見かけの割には、何も判っておらぬ。私もまだ到底、男女のことには疎いし経験も浅いが、男があのような熱い眼で女を見るときは、大抵は下心を抱いているときだ」
「下心―、では、あの方も無頼者のようなことを考えていたと?」
 男が笑って首を振る。