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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 父の言っていることは嘘ではない。楓は生まれてほどなく生母を亡くし、父は再婚もせずに楓を愛し育ててくれた。乳母(めのと)がいるものの、父は仕事で多忙な最中でも、楓と過ごす時間を大切にしてきたのも判っている。父が言葉どおり、楓のために良かれと頼朝の外戚である北条氏との縁組みを進めているのも判っている。
 けれど、その愛情ゆえの行為の中に、ひと欠片の野心もないかといえば、そうでもないだろう。何しろ北条時政といえば、頼朝の妻政子の実父であり、頼朝に最も近い人物といえる。少年時代から伊豆で流人暮らしの長かった頼朝は猜疑心が強く、滅多に他人を信用しない。その頼朝が唯一心を許すのが妻である政子とその父時政だといわれていた。
 この鎌倉で随一の権力者頼朝の懐刀、その時政の息子と己が娘を娶せるのは御家人であれば、誰もが夢見ることであったろう。北条家と縁続きになることで、父も権力の中枢へ近づき、鎌倉幕府の中でより強固な立場を築くことができるというものだ。
 何もこそまでしなくても、恒正は頼朝からの信頼も厚い。父は頼朝の流人時代から仕えているから、頼朝も実の同胞(はらから)に近い情を抱いているらしい。年齢も三つ下とほぼ同じで、長らくの苦楽を共にしてきた間柄だ。今更何も北条氏に媚を売ってまで、のし上がる必要もないのだ。
 政子は大変に好奇心と自立心に飛んだ女性で、御家人たちと頼朝が談合する場にも必ず同席する。むしろ政において発言権が強いのは時政より政子であり、その政子は頼朝との間に二男二女を儲けている。いずれはその息子が二代将軍となるのは必至で、北条氏の血を色濃く引いた将軍が誕生する。父ははるか未来に備えての布石を打っているらしいのだ。つまりは、そのための北条家との縁組みであった。
 楓とて、武家に生まれた宿命であれば、自分の気持ちのままに好いた男に嫁げるとは思ってはいない。時には家のため政略のために嫁ぐことも、物心ついたときから覚悟はしていた。なので、別に北条家に嫁ぐのがいやなのではない。
 肝心の相手―良人となる男がいやなのだ。時政の何番目かの息子に当たるその時晴という男、歳は二十二だというが、ろくな噂を聞かない。時政に甘やかされて育ったせいか、我が儘のし放題、町に出ては好みの娘どころか人妻にまで手を出し、まるで人さらいのように略奪して連れ帰るという。
 一晩、慰みものにして、さんざん辱めた挙げ句、翌朝にはまるでゴミを捨てるかのように門前にうち捨てる。よほどのことがない限り生命を取ることはないが、抵抗する女を怒りのために手打ちにしたとか、許婚のいる娘を手籠めにしたために、娘が事後に自害したとか、そんな聞くに耐えない噂まで流れていた。
 相手の男が凡庸であったとしても、まともな神経の持ち主であれば良かったが、そのように女好きの気狂いと囁かれていては、幾ら楓でも嫁ぐ気にもなれないのは致し方なかった。
―お父さまは何故、判ってくれないの?
 考えれば考えるほど、涙が溢れてきて止まらなかった。
 一刻後、楓の乳母、さつきは控えめに部屋の扉を叩いた。
「姫さま、姫さま」
 さつきは楓にとっては母代わりといって良い。代々、河越家に仕えてきた郎党の妻であり、さつき自身も二人の娘と一人の息子の母であった。既にその娘たちは他家に嫁ぎ、一人息子も一昨年結婚して、孫も生まれている。
「姫さまのお好きな砂糖湯をお持ち致しましたよ」
 幼いときから、むずかる楓に甘い砂糖湯を飲ませると、不思議に泣き止んだ。今でも優しい乳母はこうして砂糖湯を作ってくれる。
 しかし―。眠っているのかと遠慮がちに扉を開けたさつきは悲鳴を上げて、手にした盆を取り落とした。碗に入った砂糖湯がころがり落ちたが、さつきは手を口に当てたまま悲鳴を飲み込み、ゆっくりと首を振った。
 楓の部屋には誰もいなかった。続きの間になっている寝所も念のため覗いてみたけれど、もぬけの殻だった。
 これは殿にお知らせする前に、典正に申しつけて姫さまをお捜しせねば。さつきは頼もしい一人息子の顔を思い浮かべ、一人で頷いた。良人に先立たれて久しいが、恒正は近臣の嫡男である典正を息子のように可愛がり、元服のときは自らが冠親となって名も片諱(かたいみな)を与えて?典正?と付けてくれた。
 恒正に楓失踪を知らせれば、また父と娘の間に余計な波風を立てることになる。それは避けねばとさつきは小袖の裾を蹴立てるようにして息子を呼びにいった。

 楓は小袖の裾を大胆に端折(はしょ)り、両手で持つと脚をそっと海水に浸した。流石に太腿までは見えないが、白い脹ら脛は露わになっており、それこそ父恒正が見れば卒倒するに違いない。
―嫁入り前の娘が恥ずかしい真似をしおって。
 額に青筋を浮かべる父を想像し、楓は思わずクスリと笑みを零した。
 その時、背後でクスクスという忍び笑いが聞こえ、楓はピクリと身を震わせる。振り向くと、長身の若い男がひっそりと佇んでいた。
「海の女神は色香溢れる女人だと聞いたことがある。先刻のそなたを見ていて、まさしくそのとおりだと思っていたのだが、どうやら、見た目と中身は違うらしい」
 最初、楓はそれが自分のことを指しているのだと気付かず、きょとんと見つめていた。と、男がまた愉快そうに笑う。クックッと咽を鳴らしてさも愉快そうに笑っているのが悔しく、楓は強いまなざしで男を見据えた。
「あなたは誰? いきなり現れて、その言い草はないでしょう」
 男はそも愉快そうに楓を見て笑っている。その余裕たっぷりの態度は楓を余計に苛立たせた。
「そもそも海の女神が色っぽいだなんて、初めて聞きました」
 そのひと言に男はまた笑った。
「失礼な人ね。いきなり現れて、そんな風に馬鹿にしたように笑うだなんて。あなたのような無礼な人には出逢ったことがありません」
 と、男が悪戯っぽい笑みを浮かべた。刹那、楓の胸の鼓動がはねた。まじまじと彼の顔を見つめれば、この無礼な男がかなりの美男だと知れたからだ。その出で立ちからして、どう見ても武士(もののふ)ではない。漁師に違いないだろう。丈の短い上下を着ている。短い袖や括り袴からは陽に灼けた肌が覗き、日々の労働で引き締まった体?には武士も負けないほどの筋肉がほどよく付いている。
 漁師をを生業(なりわい)とするには、どこかしら品のある端正な面と雰囲気だが、そんなのは所詮は気のせいだろう。だって、初対面の人の顔を見て、いきなり笑い出すような礼儀知らずで無知な男なのだ。
 楓は男の上着の胸許から覗く小麦色の膚にドキリとし、思わず眼を背けた。
 男はまだ笑いながら、近づいてくる。楓は大きな眼を瞠って、近づいてくる男を凝視していた。
「色っぽい海の女神というのは、あんたのことだよ、娘さん」
「え?」
 楓は当惑してまじまじと男を見つめ返す。男が漸く笑いをおさめて、真顔になった。
「あんたは綺麗で色っぽい。だから海の女神みたいだって言ったんだ」
 楓はカーッと頬が熱くなるのを自覚した。
「あ、あなたって、女と見れば誰にでもそんなことを言うのね」
 憎らしいことに、男は狼狽える楓を面白そうに眺めている。