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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 賑々しい祝言の数日後、千種は突如として高熱を発して寝込んだ。周囲はそれはもう大変な騒ぎになった。千種が本物の紫ではないと知るのは、紫の身近に仕えていた身分の高い侍女数名と幕府内では執権北条時宗とごく一部の重臣のみだ。
 亡き彼(か)の姫にこれほど生き写しの姫が身近にいたことは、まさに天の与えた奇蹟としか言いようがなかった。実際、祖母の政子ですら、盛装した千種を見ていると、自分は悪い夢を見ていたのではないか、可愛い孫娘が死んだというのは実は嘘で、紫はちゃんと生きていたのではないか。そう、錯覚しそうになるほど酷似していた。
 政子でさえ紫の死を疑うほどだから、入れ替わりのからくりを知らない者たちは、千種が紫その人であると疑いもしなかった。
 そんな時、千種の耳に心ない下級の侍女たちのひそひそ話が聞こえてきたのだった。
―いまだに御台さまとお褥を共にしていないのは、御所さまが御台さまをお厭いあそばされているからというわ。
―それはそうよね。御所さまはいまだ御年、十二歳、それに引き替え、御台さまはこう申しても何だけれども、十六もお歳が上でいらっしゃるのだもの。
―このご結婚は、誰がどう見ても、ごり押し以外の何ものでもないでしょう。尼御台さまも執権さまも何が何でも頼朝さまの血を引く和子さまのご誕生を狙ってるのよ、だから、こんな無謀なご結婚をごり押しするのよね。
―御所さまがお可哀想。おん幼くして親から引き離されて遠い鎌倉に来て、今度は普通なら、あり得ない政略結婚で望みもしない女とくっつけられるんだもの。正直、将軍とは名ばかりの地位で、実際に政を意のままにしておられるのは尼御台さまと執権さまですからね。
―だけど、床を共にしない夫婦に子ができるはずもないし、第一、私が御所さまだったとしても、十六も年上の姉さん女房なんて、抱く気にもならないと思うわ。
 女同士のあけすけさからか、到底聞くに耐えないような卑猥な言葉まで飛び出し、千種はそれ以上聞いていられなくて、その場から離れた。
 侍女たちはまさか庭を眺めようと部屋を出る寸前だった千種が廊下の曲がり角のすぐ向こうにいるとは、想像さえしていなかったろう。
 よろめきつつ自室に戻った千種はそのままくずおれ、寝ついてしまったのだ。
 千種の身に何かあれば、今度こそ替え玉はいない。そのせいもあるのか、身の回りの侍女たちは神経質と思えるほど、千種の体調には気を遣った。この病臥はむろん、尼御台政子をも殊の外案じさせたと見え、寝込んだ翌日、政子が自ら訪ねてきた。
 このときも千種はまだ高熱が出たままだった。
「具合はどうじゃ? 昨日から何も食してはおらぬというではないか。そのようなことしてはならぬ。何か欲しいものがあれば、遠慮なく言いなさい」
 政子の言葉には実の孫にかけるような温かさが籠もっていた。だが、千種は政子には背を向けたまま振り向きもしない。
 政子はいつまでも頑なな千種を見て、苦笑いを刻む。
「黙(だんま)りを決め込んでおれば、この祖母(ばば)が困るとでも思うてか?」
 だが、千種の脳裡では昨日、耳にしたばかりの侍女たちの噂話がありありと甦っていた。
―今度は普通なら、あり得ない政略結婚で望みもしない女とくっつけられるんだもの。
―第一、私が御所さまだったとしても、十六も年上の姉さん女房なんて、抱く気にもならないと思うわ。
 思い出すまいとすればするほど、あの言葉が耳奥で途切れることなく蘇ってくるのだ。
 二十八にもなって、まだ一度も恋も知らなかった。生まれ落ちたときから、背中に大きな赤あざがあり、生涯誰にも嫁げぬと諦めていた。
 頼経に嫁いだのももちろん、望んだわけではない。いきなり亡き紫姫の身代わりになれと命じられ、替え玉として飾り物の御台所に据えられただけのことなのに。
 何故、自分がこんな辱めを浮けねばならない?
 望みもしない結婚は頼経だけでなく、自分だって同じなのに。
「紫」
 鞠子とそれらしく改名したけれど、周囲の人々は皆、千種を幼名で呼ぶ。千種にすれば、どちらの名前も所詮は他人のもので、借り物にすぎないから、特に拘りはない。
 何度呼びかけても応えない千種に焦れたのか、政子がその肩に手をかけた。その拍子に振り向いた千種の瞳には大粒の涙が宿っていた。
「―」
 政子が胸をつかれたように息を呑んだ。
「そなたが泣いておるのは、大方はあらぬ噂のせいであろうな」
「あらぬ噂?」
 高熱が出ているにも拘わらず、千種は半身を起こし政子をキッと見据えた。
「真に、あらぬ噂なのですか? 皆の申すことの方が恐らくは正しいのでしょう。確かに噂は正しいのですから、私は御所さまよりは十六も年上です。本来なら、御所さまにはそのお歳にふさわしい可愛らしき姫君が嫁すはずでありましたものを。それに―」
 それに、大体、私は偽物の姫ですから。
 いかにしても、それだけは口にしてはならない。我が身ばかりか、政子や幕府の屋台骨そのものを揺るがすほどの秘密だからだ。言えなかった言葉は重たい岩のように千種の心の奥底に沈み込む。まるで身体の内に石を抱えているかのように苦しい。
 今にその苦しさのあまり、真の病になってしまうのではないかと思うほどだ。
 と、政子がらしくもない気弱な笑みを浮かべた。
「頼経どのはまだ十二、男と女のことは何もご存じない。ましてや、結婚など現(うつつ)のことにも思えぬのであろう」
「言い訳は結構にございます。私は傀儡の妻として、ここに大人しうに座っておれば良い。それで尼御台さまはご満足にございましょう」
 政子の声が大きくなった。
「それは違う! あのときも」
 政子は激高した己れを落ち着かせるかのように手のひらを胸に当てた。やや声を潜めて囁くように続けた。
「そなたを初めて御所に呼んだ日も、申し聞かせたはずだ。そなたの幸せを心から願うておると」
「幸せになどなれるはずがありません。わずかに十二歳の、夫婦がどのようなものか理解すらできない幼子と連れ添い、どうやって幸せになれるというのですか? 妹背とは互いを敬い、理解し合ってこそ上手くゆくものだと、私は父から教わりましてございます。そもそも良人という自覚のない方を妻としてどのように理解すれば良いものやら」
 いつしか千種は自分の言葉に自分で泣いてしまった。
「私は十二歳の子どもに嫁がされたのです。尼御台さまが夫婦が何たるものかも知らぬ童の妻になれと」
 止めなければと思いつつも、涙も言葉も迸るように止まらなかった。今は政子の孫、将軍家御台所という立場があるからこそだけれど、これが一御家人の娘であれば、忽ちにして首が飛ぶほどの無礼である。
 永遠に果てることもないと思えるほどの沈黙が続いた。突如として政子の口から零れ落ちた言葉に、千種は息を呑んだ。
「済まぬ」
「―」
 まさか政子があっさりと謝るとは思わず、千種は眼を見開いて政子を見た。
「初めて逢うた日にこれも話したのう。頼経どのが鎌倉入りしたときに紫に申した言葉じゃ。十七の紫に一歳の頼経どのの妻になるようにと申したら、私は赤児の妻になるのですかと号泣した」