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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「私を恨むのは仕方ない。されど、頼経どのを恨むでないぞ。そなた自身の曇りなき眼で頼経どのをとくと見、どのような男かを判ずるのじゃ。曇った眼で頼経どのを見れば、そなただけでなく頼経どのをも不幸にする」
 衣擦れの音が遠ざかってゆく。依然として平伏した体勢でその音を聞きながら、千種は思った。
―我が人生は今、このときを持って終わった。
 来たときに案内してくれた侍女に導かれて部屋を出て廊下を辿る。吹き抜けになった渡殿からは庭が見渡せた。夏ならば、ここからは満開になった蓮の花が見渡せるはずだが、神無月の今は枯れた蓮(はちす)がどこかうらぶれた姿を晒しているだけだ。
 初夏には薄紅、純白と言わず大輪の蓮花が満開に咲き誇り、さながら極楽浄土もかくやといわんばかりの光景が出現する。それに引き替え、今の何と侘びしいことだろう。まさに、極楽と地獄ほどの違いがある。
 つい三ヶ月前には極楽のごとき花を咲かせいた蓮池に浮かぶのは枯れ花だけ、その上に細やかな雨が降り続いている。まるでその池の無残な姿に、これからの自分の姿を見るような気がして、千種はそっと眼を背けた。
 ふと視線を転じた先に、紫式部の花がひっそりと咲いていた。丁度、渡殿から庭まで続く短い階(きざはし)の傍、小粒の薄紫の実を一杯につけ、愛らしい花を咲かせている。千種には、その可憐な花が秋雨に打たれて、泣いているように見えた。見るともなく見入っていると、背後から声がかけられる。
「姫さま、いかがなされました? 外は肌寒うございます。大切な御身がご風邪でも召されたら一大事ですわ」
 そのひと言で、我に返った。そう、我が身はもう、千種ではない。河越康正の娘千種は、今日を境に死んだ。ここにいるのは尼御台の孫にして、源家の血を受け継ぐ最後の姫君紫なのだ。
 千種は滲んできた涙を眼裏で乾かした。そうでもしなければ、泣き出してしまいそうだったからだ。そして、一度溢れ出した涙は秋雨のように止むことはないだろう。
 ―だから、泣かなかった。

 見知らぬ花婿

 政子の言葉に嘘はなかった。最早、政子から話を聞いた時点で、千種は引き返すことはできなくなっていたのだ。そのことを身をもって思い知ったのは、むしろ、政子との対面後であった。
 御所にいきなり呼び出された千種は河越の屋敷に戻ることも許されず、そのま御所内の一室に身柄を拘束されたのだ。せめて父に事の次第を伝えたいと申し出たものの、許されるはずもない。万が一、逃亡でもされては一大事と警戒されてのことだろう。
 それからの日々は、ひたすら花嫁教育に明け暮れた。本物の紫姫は将軍家の姫として詩歌音曲はむろん、女としての諸芸万端は身につけていたという。源氏の姫として、将来は将軍家御台所になるべく決まっていたのだから、無理からぬことであった。
 そのため、千種もまた俄仕立ての姫君として最低限ボロが出ないようにとみっちり仕込まれることになったのである。生来、飲み込みの早い千種は何事においても、渇いた砂が水を吸うように物覚えも良かった。準備期間はわずか二ヶ月足らずであったにも拘わらず、その間で、ひととおりのことはそつなくこなせるようになり、政子を歓ばせた。
 実家の父河越康正は一躍、政所令(次官、ちなみに長官は執権)という幕府内でも重要な役職に抜擢され、合わせて幕府でも執権や重きをなす一門しか加われない寄合衆に加えられた。
 寄合衆は幕府の最高枢密議会といっても良い最高意思決定機関である。河越家は昔日の栄華を取り戻したかに見えた。千種が御所で暮らすようになって数日後には、河越康正の娘千種の病死が公表された。これにより、千種は本当にこの世から抹殺されてしまった存在になった。
 この頃になると、千種は最早、自分が生きながら死んでしまったことに何の感慨も抱かなくなっていた。いや、抱く余裕さえ、なくなっていた。連日の御台所教育、更に迫りつつある祝言の支度など、目まぐるしく刻は過ぎていった。
 もしかしたら、考えることを千種本人が拒否してしまっていたのかもしれない。実際、一日の予定をこなすので精一杯で、夜が来れば侍女に無理に褥に押し込まれる間でもなく、過密な日程に疲れ切り、深い眠りに落ちていくだけの日々だった。
 そんな中で月日はあっという間にうつろい、暦は師走に入った。
 寛喜二年(一二三〇)十二月九日、鎌倉御所の大広間において、第四代将軍頼経と竹御所の華燭の典が盛大に行われた。竹御所は、その住まいに竹林が風情のある様子で植わっていたことから、その名で呼ばれるようになった紫姫の呼称だ。
 紫姫は二代将軍頼家の息女であり、今では頼朝の血を伝える唯一の直系の姫である。この婚姻に伴い、紫姫は名を幼名から?鞠子(まりこ)?と改めた。
 上等の練り絹の白小袖を纏った竹御所鞠子は殊の外美しく、その場に列席した重臣たちは皆、息を呑んだ。頼朝の代から仕えてきた御家人の中には感激のあまり、涙する者もいた。
―まるで天女が降臨したかのようなお美しさ。流石は亡き頼朝公のお血筋だけはある。
 その日の鞠子の周囲を圧倒するばかりの神々しさ、美貌は後々まで語りぐさになったほどだった。
 だが―。この盛儀において、最も矛盾した点があると誰もが知りながら、見て見ぬふりをしていたことがある。それは金屏風の前で仲睦まじく居並ぶはずの新郎新婦の中、肝心の新郎が最後まで姿を現さなかったことだ。
 しかし、誰もがその不自然さなどまるで眼に入らないように終始、ふるまった。頼経はついに婚儀が終わるまで、現れることはなかったのだ。
 花婿不在の祝言、本物の紫姫ではない偽物の花嫁。どれもが偽物ばかりの、とんだ茶番の結婚式だった。当然、花婿が初夜の夫婦の床に来るはずもなく。
 千種はずっと朝まで寝所に座り込む羽目になった。将軍が妻と過ごす寝所は、千種がこれまで使っていた居間続きの部屋とはもちろん別だ。
 若夫婦の寝所には整然と夜具がのべられている。豪奢な絹の夜具が幾重にも重ねてある。良人が来る前に、よもや妻が先に布団に入ることができるはずもなく、千種は朝までまんじりともせず、その傍に端座し続けた。
 十二月の夜の冷えは尋常ではない。千種は薄い夜着一枚で寒さに震えながら、朝まで過ごすことになった。花嫁にとって、あまりにも長く過酷すぎる一夜がようよう明け初(そ)める頃、楓の白い頬をひとすじの涙がつたっていた。
 偽物の姫君、紛い物の花嫁は所詮、本当の姫君として幸せにはなれない。
―頼経どのを恨むでないぞ。そなた自身の曇りなき眼で頼経どのをとくと見、どのような男かを判ずるのじゃ。
 紫姫の身代わりになれと命じられたあの時、政子はしかとそう言った。が、曇りなき眼も何もあったものではない。端から頼経は二代将軍の娘との婚姻など、望んではなかった。
 意に添わぬ身代わりとしての日々、更に逢う前から良人に拒絶される―、あまりの過酷な環境に、千種の心身も限界が来たらしい。もちろん、新婚初夜となるべき夜、布団の外で寒さに震えながら惨めな気持ちで朝を迎えたことも大きな原因には相違なかった。