華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
政子が皺に埋もれた細い眼をしばたたいた。その眼に光るものが見えたような気がしたのは、千種の見間違いであったろうか。
「今度は、そなたがまたしても同じことを言う。私は十二の童の妻になるのかと、この祖母を責める。私は二度、可愛い孫を泣かせ苦しめておるのじゃな」
「尼御台さま」
政子が淋しげな笑みを浮かべた。
「その呼び方は止めよと申したはずじゃ。ここに入れるのは入れ替わりの秘密を知る者ばかりといえども、都方の間諜がいついかなるときにどこに潜んでおるかも判らぬゆえ」
承久の乱以降、朝廷は完全に幕府の監視下に置かれることになった。だが、朝廷は依然として幕府を敵視しており、両者は表面上均衡を保っているものの、水面下では牽制し合っている。
「―はい、お祖母さま」
素直に言いつけに従った千種に、政子は眼を細めた。その慈愛に満ちた表情は間違いなく孫を溺愛する祖母のものだ。千種自身、政子が政略のためだけに自分を利用しているとは信じられなくなってしまいそうだ。
「それで良い。水の流れは無理にせき止めることも、変えることもできぬ。無理に変えようとしても、かえって余計に事態は望ましうない方向へと流れゆくばかりのもの。それと等しきものにて、そなたと御所さまが真、夫婦の縁(えにし)で結ばれておるならば、焦らずともいずれ、そのときはめぐり来よう」
政子は意味深な科白を残し、千種の頬にかかった乱れ髪をそっとはらった。
「紫という名は私が付けたのじゃ。紫は人の縁のゆかりに通ずる。生まれた姫が様々な人と良き縁を結び、幸多き生涯を送れるようにと祈りをこめた」
政子の手が千種の髪を愛おしむように撫でる。
「ゆっくりと養生しなされ。また貌を見にくるゆえ、次のときは元気になっておるのじゃぞ」
千種は小さく頷き、身を褥に横たえた。戸の閉まる音が聞こえる。何故か疲労感に見舞われ、千種は眼を閉じた。ほどなく急激な睡魔が彼女を深い眠りの底へといざなっていった。
この時、千種はまだ知らなかった。政子の去り際、残した言葉がいずれ真実として彼女の前に明らかになることを。
―この男、やっぱり変だわ。
千種は先刻から、腕組みをして少し前方の男を見ていた。女が腕組みをして往来に立つというのは、あまり褒められたものではない。だが、今、千種はお忍びで市井の民のようななりで、ここにいる。特に誰にとがめ立てされる心配はない。
ここは鎌倉の往来、とりわけ賑わう大路の一角である。その中ほどに、大きな人の輪ができている。中心にいるのは中年の小柄な男と、一匹の子猿。どことなく似ている面相をしたこの一対だが、男は都から来たという大道芸人で、派手な着物を着せた小猿に見事な芸をさせては観衆から、やんややんやの大喝采を浴びていた。
千種はその人だかりからはやや離れた後方から成り行きを眺めているという図である。彼女が怪しいと睨んだのは、何も芸人と猿ではない。人の列が何通りもできた最後尾にいる大男であった。
横幅も身の丈も人並み外れたその大男はかなり目立った。赤銅色に日焼けしているところを見れば、船乗りか漁師を生業(なりわい)にしているのか。頭は綺麗にそり上げた禿頭で、丈の短い粗末な着物を着ている。
その見るからに風体の怪しげな男が傍らのこれまたいかにも平凡で善良そうな商人風の男をちらちらと盗み見している。こちらの男は行商でもしているものか、大きな荷を背負っていた。
あの目つきはどうも気になる。良からぬことを企んでいる者特有の厭な視線だ。
芸人が小猿に煎餅を与える。すると、小猿はまるで人間の子がするように、丸い煎餅をきちんと四つに分けて行儀良く食べ始めた。
そこで、芸人がひときわ声を張り上げる。
「この小猿の名は小夏と申します。見たとおり、女ですが、たいそう賢く、何と数を理解しております。小夏、一は?」
最後は猿に向けて訊ねる。芸人は訊ねながらまた煎餅を与えると、猿の小夏はまたしても煎餅を綺麗に四頭分し、その中の一つをさっと観衆に向かって指し示して見せた。
途端に観衆がどよめく。更に気をよくした芸人は小夏に?四は??と訊くと、猿は四枚分すべてを手に持ち、持ち上げて見せた。
おおー、とも、何ともつかぬ歓声が沸き上がる。千種はその一部始終を後方から見ていたが、彼女の興味はむろん、猿と芸人ではない。ゆえに、千種の視線が最後列の大男と真面目そうな小男から離れることはなかった。
猿が四切れの煎餅をすべて持ち上げて見せたその時、大男がいかにも芸がつまらなさそうに溜息をつき、肩を竦めた。次いで興味を失ったかのような貌でやおら踵を返す。
その拍子に隣の小男にぶつかった。
「痛ェな。どこに眼をつけてやがる」
凄まれて、気の毒な小男は震え上がった。何を言いがかりをつけられるのかと警戒心も露わだったが、意に反して大男はあっさりと?気をつけな?と怒鳴り、懐手をして悠々と去っていった。小男はあからさまに安堵の表情を浮かべている。
「もし、そこの方」
千種が声をかけると、小男は眼を丸くした。更に千種が雪膚の妙齢の女だと判り、赤面する。純情な男なのだろう。
「不躾なことをお訊ねしますが、懐の中を確かめられた方が良いですよ」
「―?」
不審げな貌ながらも、男は片手を懐に突っ込んだ。途端に、その貌が蒼白になった。
やっぱりと、千種は自分の読みが外れてはいなかったことを今更ながらに知った。
「やはり、盗られていましたか?」
「は、はいっ」
男は泣きそうな表情で幾度も頷いた。
千種は肩を竦めた。
「あやつは掏摸(すり)ですよ。玄人(くろうと)かどうかまでは判りませんが、かなりの手練れであることは確かなようです。ここで大人しく待っていて下さい。あなたは騒がない方が良い、私が盗まれた財布を取り返してあげますから」
「あ、あなたが?」
誰が見ても可憐な娘があの大男に立ち向かっていくなぞ、およそ正気の沙汰とも思えない。現に男も眼をぱちくりさせていたが、その前に千種は男の前から姿を消していた。
それにしても、逃げ足の速いヤツだ。千種は大男の後を付かず離れず追いながら、妙なところで感心する。
大男は付けられているとは露も知らず、大股で歩いているが、その貌には余裕の笑みが浮かんでいた。さて、そろそろ哀れな男が掏られた財布を取り返してやろうか。千種は深呼吸した。
こう見えても、幼い頃から庭の樹によじ登ったり、屋敷を抜け出して物珍しい市をひやかして歩くのは日常茶飯事だ。父康正は千種のお転婆ぶりを知ってはいたけれど、生涯嫁げぬ宿命を背負った娘が不憫なのか、見て見ぬふりをしてくれたから、叱られることもなかった。
恐らく今でも木登り比べをしたら、あの小猿よりは敏捷に登れる自信はある。
目抜き通りを抜け、人気が殆どなくなった細道に差し掛かった頃、千種は漸く大男を呼び止めた。
「ちょっと、そこのお兄さん」
何度目かに漸く大男が立ち止まった。いかにも面倒臭そうに振り向くのに、相手が美人と知るや、現金なもので、眼の色が変わる。その眼に下卑た光が宿るのも無視して、千種は腕組みをした。
「お兄さん、さっき、隣の人から財布を擦ったでしょ」
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ