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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 その人の枕頭に侍っていた薬師はハッとして、病人の腕を取った。しばらく黙って病人の脈を取っていた。まるで何ものかに祈りを捧げるかのような表情だ。かと思うと、老いた薬師がゆるりと首を振る。
 刹那、静けさに押し潰されそうな部屋の空気がザワリと、動いた。思わず嗚咽を洩らす者、噛み切れそうなほど唇を噛みしめる者。それぞれが己れが今日まで大切に守り抜いてきた人が二度と手の届かぬ遠い場所へと還っていった―その酷すぎる現実を受け止めかねていた。
 その日、一つの生命の焔がこの世から消えた。しかし、その死は箝口令が敷かれ、誰の口の端に上ることはなかったのである。
 そして、その死がよもや自分の平凡な生涯に大きな転機をもたらすことになるとは、まだ知らない者もいた。

 雨の朝(あした)

 千種(ちぐさ)は忙しなげに視線をあちこちにさ迷わせた。ここに来てから、ゆうに一刻余りにはなるはずだ。幾ら何でも、これはあまりに遅すぎる。
―河越家の姫たるもの、いつ何時も家名に恥じないようなふるまいを心がけねばならぬ。
 千種は物心ついた時分から、常にそう言い聞かれさて育ってきたし、我が身にもそう戒めてきた。
 その教えからすれば、今の自分はさぞかし落ち着かない娘、はしたなく見えることだろう。が、一御家人の娘がいきなり御所に呼び出されて長らく待たされたのでは、動揺しない方がおかしい。
 飛ぶ鳥落とす勢いの家ならともかく、千種の父河越三郎康正は鎌倉幕府内では、殆ど発言権もなく、河越家そのものも逼塞している。ゆえに、その娘である千種もこれまで御所に上がったことなど一度もない。
 康正の父、つまり千種の祖父恒興は元々次男で、家名を継ぐ立場にはなかった。それが何故、急に当主となるに至ったか。その理由は兄に当たる前(さきの)当主恒正が俄に出家・隠遁してしまったからだ。
 恒正は初代将軍頼朝が流人時代から傍近く仕え、兄弟同然の間柄でもあった。従って、頼朝が将軍となってからも、重臣として幕府内で重きをなしてきたのである。ところが、頼朝直々に取り持った北条家との縁組みを一人娘楓が嫌い、どこの馬の骨とも知れぬ漁師の若者と駆け落ちしてしまった。
 その頃から、頼朝と恒正の間に流れる空気が微妙になったといわれている。とはいえ、恒正の頼朝に対する忠誠は生涯変わらず、頼朝が亡くなるまで、常に影のようにまめやかに仕え続けた。
 恒正が出家したのは、生涯忠誠を誓った主君頼朝が亡くなった後のことだ。頼朝の死後、まもなく、娘の楓がその良人、つまり河越家の婿養子となったばかりの時繁という男と蓄電した。蓄電の理由は定かではないが、恒正の突然の遁世は、後を託す娘夫婦の失踪と頼朝の死という身内の相次ぐ不幸によるものであろうと囁かれていた。
 千種の父康正は祖父恒興の嫡男であり、兄の出家により急遽、河越家を継ぐことになった父から順当に家督を継いだ。しかし、恒正が頼朝の第一の臣と謳われた頃のかつての威勢は既に昔の語りぐさとなり果てている。
 千種は、逼塞した一御家人の娘として、慎ましく育った。それでも、在りし日の河越家の隆盛を知る父康正は
―我らは初代の鎌倉どのの第一の臣といわれた家柄ぞ。その河越氏の者たる誇りを常に忘れてはならぬ。
 というのが口癖であった。だからこそ、千種も己れを厳しく律してきたのだ。
 それにしても、遅い。千種は大きな溜息をつき、周囲を見回す。昨夜から止むことのない雨がまだ軒を打つ音が聞こえている。秋の雨はひと雨毎に季節を深めてゆく。豪雨のようでもなく、ただ、しとしとと降り続く繊細な雨は女人の吐息をより合わせたようだ。
 静かな雨が心の奥にまで降り込んでくるようで、千種はまた小さな溜息を一つ落とした。
 そのときであった。突如として、秋雨のしじまを破る声が響いた。
「尼御台さまのおなりにございます」
 その声に、千種は我に返り、我知らず居住まいを正す。何故、初代将軍頼朝の正室にして、三代実朝が非業の死を遂げた後もなお、隠然たる勢力を持つ政子がここに現れるのか。あり得ない疑問よりは、緊張の方がはるかに勝っていた。
 源将軍家はここのところ、不幸続きであった。頼朝が亡くなってからというもの、二代頼家が後を嗣いだが、政子や外戚の北条氏により廃されてしまった。頼家は伊豆に幽閉され病死したが、北条がひそかに頼家を暗殺したともいわれている。
 頼家は政子にとっては実の息子だが、この若い将軍は妻の実家比企氏の言うなりで、政子の言葉には耳も貸さず、母方の実家北条氏を無視した。それがために、若くして退職させられたのだ。
 その点、政子は男にも負けないほどの冷静な判断力、言い換えれば、非情さがあった。我が子であれ、幕府のためにならねば切り捨てる。政子にとって最も大切なのは、良人と築いた鎌倉幕府であり、将軍家の安泰に他ならない。
 三代実朝は頼朝と政子の次男である。将軍位についたときは、まだ十二歳の幼さであった。政子やその父時政は幼い将軍を傀儡として、自分たちが意のままに政権を操った。実朝は穏やかな性格で、母や北条と争うことはなかったのだが、不幸にも二十七歳で頼家の忘れ形見である公暁に殺された。
 つまりは叔父が甥に殺されたのである。まさに血で血を争う醜い骨肉の争いを源氏は繰り広げたのだ。世の人は、それをひそかに?平家の呪い?と囁いた。かつて壇ノ浦合戦で源氏が平家を壊滅的に追いつめたその報いが源氏に下されたのだ、と。
 果たして真偽のほどは定かではないが、頼朝の悲願の上に建てられた幕府は、わずか三代にして頭上に戴く将軍を失った。実朝の死後、幕府は皇族から新将軍を迎えたいと再三、朝廷に上訴したが、幕府嫌いの後鳥羽上皇はそれをついに許さなかった。そのため、やむなく摂関家から九条道家の三男、三寅(みとら)を将軍後継者として迎え入れるに至ったという経緯がある。
 三寅という幼名は寅の年、寅の日、寅の刻に生まれたがゆえに命名されたとか。わずか一歳で京から鎌倉に下り、尼御台政子の手によって大切に育てられた。
 その間、幕府は未曾有の危機に晒された。後鳥羽院が企てた承久の乱がそれである。かねてから幕府の専横を快く思っていなかった院は時ここに至り、倒幕の兵を挙げた。その時、鎌倉武士は動揺し、幕府内は混乱の極みにあった。
 尼御台政子はそんな彼らを一堂に集め、朗々とした声音で告げた。
―今こそ、亡き先代さまが築かれたこの幕府を我ら一丸となって守り抜くときが来た。思えば、そなたらは父祖の代から、こうして幕府のために働いてきてくれた忠義の者ども、どうか、頼朝さまの御霊に誓って、心を一にして闘うと私に誓って下され。
 政子の説得に、屈強な東武者が皆、肩を震わせ泣いたという。
 結局、院の企てはあえなく挫折し、戦いは幕府方の勝利に終わった。政子の幕府内での影響力は今や、執権北条氏をも凌ぐものであった。この頃から、政子は尼御台ではなく、?尼将軍?と呼ばれるようになった。承久の乱をはさみ、鎌倉にまた慶事もあった。襁褓(むつき)の赤児として迎えた将軍後継の三寅がつつがなく成長、七歳で元服し、翌年、将軍宣下があり、ついに幕府はここに四代将軍を戴くことにあいなった。