華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
元服した三寅は頼経と名を改めて、今日に至っている。
摂関家の血を引く新将軍誕生には、やはり何と言っても、尼御台政子の力が大きい。しかも、政子は頼経にとっては育ての母も同然だ。そんな幕府の頂点に立つ女性がうらぶれた御家人の娘に何用があるというのだろうか。
千種は押し寄せる不安をひた隠し、その場に手をつかえた。先触れの後、ほどなく衣擦れの音がして、上座に人の気配があった。
「苦しうない、貌(かお)を見せてくれ」
予想外に気さくな声を聞き、千種は反射的に面を上げた。少し離れた前方に、一人の女人が座っていた。薄墨色の頭巾に同色の法衣を纏ったその姿は小柄で、到底、荒くれ者で知られる御家人たちを一声で圧倒する女傑には見えない。
小さな貌には年輪を刻んだ跡がくっきりと刻まれてはいたけれど、若き頃の溌剌さはいまだ失われておらず、眼は生き生きと輝きを放っている。
思わず政子と視線が合ってしまい、千種は慌てて面を伏せた。何という無礼だろう!
が、政子は気を悪くした様子もなく、柔和な笑みを湛えたまま千種を見ている。
「思うた以上じゃ。これならば、誰が見ても判るまい」
政子のひと言に、千種は小首を傾げた。何の話か皆目判らない。政子は謎めいた微笑をいっそう濃くし、また思いもかけないことを口にした。
「名は千種と申したか」
「は、はい」
千種は上擦った声で応える。既に千種自身のことは誰かから聞いて予備知識として知っているのかもしれない。
「そのように固くならずとも良い。千種、私は楓をよう知っておるのよ」
聞き憶えのない名前に、千種は首をひねる。
「楓―?」
訝しげな声で気付いたのか、政子が薄く笑った。
「そう申せば、そなたは楓に逢うたことはないのであったな」
そこで、千種は閃いた。
「私の父の従妹に、そのような名前の方がいたとは聞いたことがありますが」
政子は明るい笑顔で頷いた。
「そうじゃ、朗らかで笑顔の似合う娘じゃった。今頃、どこでどうしておるものやら。楓のことゆえ、いずこかで生きておるのであろう。我が娘同然とも思うた楓が野垂れ死んだなどとは今でも信じとうはない」
北条政子の弟時晴との祝言を控えた身で屋敷を飛び出し、漁師と夫婦になったという楓。その後、晴れて河越の屋敷に戻り、漁師は河越家の婿、次期当主として認められ、幸せな生活を送っていたある日、二人はまたしてもいなくなった。楓は今度こそ、永遠に姿を消したのだ。
それ以来、楓の話は河越家内では禁忌となっている。
千種の想いを見透かすかのように、政子は優しく微笑んだ。
「何も案ずることはない。私は先も申したように、楓を我が娘とも思うておったのじゃ。幼い頃には膝に抱いて、あやした憶えもある。そなたら身内の者には、あってはならぬ不祥事をしでかしたではあろうが、私は楓がどこにおっても、幸せであってくれれば、それで良い。無責任な言い方かもしれぬがの」
政子はそこで小さな生きを吐いた。
「女の幸せは、心から恋い慕う殿御に添うことじゃ。楓は紛れもなく女としての幸せを掴んだのであろうな」
政子の瞳は遠い。その眼は眼前の千種に向けられているようで、その実、千種を捉えてはいない。
―ああ、きっと尼御台さまは楓という娘が鎌倉で生きていた頃、はるか昔を見ているのに違いないわ。
千種が思ったのと、政子が想いを振り切るようにかぶりを振ったのはほぼ同時のことであった。
「ゆえに、これから私がそなたに申すことは、この上なく残酷であるとは理解しておる。じゃが、もう、そなたの力を借りるより、すべはない」
まだ何のことか判らず、千種は眼をまたたかせた。政子がふいに手で差し招いた。
「こちらへ」
逆らうこともできず、楓はそろそろと膝をいざり進める。尼御台さまに近づくなど、あまりにも畏れ多く、それ以上は到底、近づけるものではない。しかし、政子はあっさりとその千種との距離を縮め、自分から近づいてきた。
気が付けば、千種はその手を政子に取られ、握りしめられていた。
「間近で見ると、ほんによう似ておるのう」
最初、政子の言葉は千種が他ならぬ楓という見たこともない身内と似ていると指摘しているだけだと思えた。だが。
その底には、千種の窺い知れぬもっと別のの意味が二重に秘められていたのだ。
「私はそのように楓さまに似ていますか?」
無邪気に問いかけた千種に、政子はまた、謎めいた微笑を浮かべた。
「そなたが似ているのは、楓だけにはあらず。我が孫の紫(ゆかり)にもよう似ておる」
「紫さまと申せば、二代さまのご息女の―」
二代頼家と妻若狭局の間に生まれ、十三歳で三代実朝の猶子となり、現在は政子の許で暮らしているという姫君。不幸続きで亡くなった源氏一族の最後の生き残りであり、頼朝の直系を引く、ただ一人のやんごとなき身、紫姫。
政子もたった一人の孫として、溺愛していると聞く。
政子は先刻までの親しげな口調とは打って変わり、どこか淡々とした他人事めいた様子で語った。
「私はそなたに逢うたことはないが、楓はよう知っておる。更に、記憶に残る楓と紫はうり二つであった。だからこそ、楓とよう似ておるというそなたと紫もまた似ているのではと思うたのよ」
それでも、千種はまだ政子の意図を計りかねた。茫然としている千種に向かい、政子は囁くような声で言った。
「我が孫紫は昨夜、死んだ」
「―っ」
流石に、千種も息を呑んだ。紫姫が亡くなったどころか、病臥しているとの噂すら聞いてはいない。なのに、いきなり死んだと告げられて、納得できるはずもない。
政子は更に声を低めた。
「紫が篤き病の床に伏していたのは幕府内でもわずかな者しか知らぬ」
「ですが、紫さまは御所さまとの祝言をまもなくに控えられたおん身では―」
言いかけて、千種はハッとした。あまりの予想に唇が戦慄(わなな)いた。
「よもや、尼御台さま」
雨音だけが響くしじまの中で、政子と千種の視線が交わった。明かりさえ射さぬ薄い闇が満たす中で、政子の眼が炯々と光っていた。
「それゆえにじゃ。やはり、河越の家の者は聡明じゃのう。皆まで言わずとも、私の頼みたきことは判ったようだ。そなたならば、この大事を託しても間違いはないと見たぞ」
千種は熱病に浮かされたように烈しく首を振った。
「そのような! 私にそのような大切なお務めは果たせませぬ。紫さまの代わりになるなど。万が一、事が露見すれば、それは私一人の咎では済みますまい。畏れ多きことながら、尼御台さまを初め、執権どの、引いては幕府そのものの咎として追及されることもありまする」
そこで、政子の語調が強くなった。
「そなたが望むと望まぬに拘わらず!」
ひと息ついて、千種を見据える。
「最早、賽(さい)は投げられた。この幕府でも最高の機密情報を知った時点で、そなたはもう引き返せぬ大事に拘わったも同然」
千種は唇を噛みしめる。その華奢な身体が唐突にあたたかな温もりに抱きしめられた。あろうことか、千種は政子の腕の中にいた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ