華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
あろうことか、楓の居間で、良人が若い女と話していた。女は庭に跪いていたが、見たところ二十代前半くらい。黒髪の艶やかで色白の美しい女だ。女にしてはやや大柄な身体を葡萄茶色の小袖で包んでいる。
「―!」
楓は予想さえしていなかった光景に鋭く息を呑んだ。自分のヒュッと息を呑む音が聞こえた。
「では」
美貌の臈長けた女は時繁に一礼し、風のように走り去った。
「楓」
時繁が物言いたげに見つめてくる。楓は夢中で首を振りながら、一歩後ずさった。
「頼む、俺の話を聞いてくれ」
間合いをつめながら、時繁が近づいた。室内にまで追いつめられ、楓は観念したように眼を閉じた。それから可能な限り、心を落ち着かせ口を開いた。
「あの方はどなた?」
時繁は見られた以上、隠すつもりはないのか、意外にあっさりと応えた。
「鈴音(すずね)と申す者だ」
楓は惚けたように呟く。
「鈴音―さま」
と、時繁が大きな声で言った。
「誤解するな。あの者とは男女の仲とか、そのような拘わりではない」
楓は虚ろな視線を良人に向けた。
「では、何なのですか? あの美しい女人は、あなたさまにとって、どのような存在だというの? あのような侍女は、この屋敷では見かけたことがございません」
「ひと月前、当家に入った下女だ」
楓は哀しい想いで時繁を見た。
「下女と関係を持っていたのですか」
時繁は声を荒げた。
「だから、違うと言ってるだろうが! 俺はお前と知り合ってから、他の女を抱いたことは一度たりともない。それは真だ、信じてくれ」
だが、口では何とでも言える。現に、鈴音という女と時繁は妙に親密そうだった。あれがただの使用人と主筋の人間だとは思えない。
そのときだった。楓は動転のあまり、忘れていた大切なことを思いだした。
―その日が憎き頼朝の命運の尽きる日でございますね。それでは、その折までに薬を調達致します。
あの鈴音という女が去り際に囁いた禍々しい科白が耳奥でこだました。
今は我が身の心配よりは、そちらが大切だ。楓は両脇に垂らした握り拳に力をこめた。
「それに鈴音という女が申していたことも気掛かりです」
「何も訊かないでくれ」
苦渋に満ちた表情で時繁が言った。
楓はかぶりを振る。
「そのようなわけには参りません。我が家は父祖の代から源氏にお仕えし、御所さまや御台さまには少なからぬご恩を賜っているのです」
その頼朝の命運が尽きるなどと不吉な言葉はたとえ言葉だけでも口にしたくはない。いにしえから日本には言霊という言葉が信じられ伝えられてきた。一度口にした言葉は文字どおり魂を持ち、いずれは真になるというものだ。
「御所さまのおん名を確かに鈴音は口にしておりました」
そこで、楓はハッとした。時繁の端正すぎるほど整った面を凝視した。
「よもや、あなたさまは御所さまを―」
その先は到底口にできるものではなかった。刹那、これまで彼が口にした言葉の数々がありありと甦ってくる。
―宿願を果たしに。
―俺も心に降り積もった何もかも棄てて生きられたなら、どんなにか心平らかでいられるだろう。
様々なものが押し寄せ、楓は気が狂いそうだった。いっそのこと、このまま気を失ってしまいたいとさえ思う。
「私は今まで、あなたさまの素性を突き止めようと思ったことはありませんでした。一つには知るのが怖かった。何故か、あなたさまが誰であるかを知れば、私はもう時繁さまとご一緒にはいられないと、そんな予感がしてならなかったのです」
楓は小さく息を吸い込み、首を振った。
「でも、そういうわけにはゆかないようです。あなたが御所さまに明確な殺意、或いは敵意を抱いている以上、私はあなたが誰であるかを知らないわけにはいかない」
「―」
時繁は口を開きかけ、つぐんだ。彼の美しい貌にもまた複雑な感情がよぎった。後悔、安堵、絶望、喪失。沈黙を守る時繁になり代わり、楓はひと息に言った。
「あなたさまは平家にゆかりのお方、平家の若君ではありませんか?」
「―っ」
今度は時繁が息を呑む番だった。
「お前は知っていたのか!?」
信じられないという面持ちだ。楓はひそやかに微笑った。
「あなたの生い立ちを聞いているときに、薄々はお察ししておりました」
そう、決定打となったのは入水の話だった。時繁と生き別れになるほどなら、いっそ海に入って死にたい。そう泣いた楓に、時繁は入水した者の苦しみは判らないと言ったのだ。更に、自分は入水したことがあると。
「時繁さまのご年齢からすると、そのような大きな戦があったのは源平が戦った壇ノ浦くらいしかありません。あの折、平家では主立った方々はすべて入水され、お労しくも多くの方が生命を落とされました。あなたさまが平家の若君であるとすれば、あのお話も信憑性があります」
時繁が遠い眼になった。その瞳はあまりにも彼方を見つめている。今、この時、彼は十三年前の壇ノ浦合戦の最中を見ているのかもしれなかった。幼かった彼が見た、まさにこの世の地獄としか思えぬ阿鼻叫喚の地獄図絵、平氏の無念の最期を。
「我が一族は源氏に深い遺恨を抱いている」
楓の眼に涙が溢れた。
「ならば何故! 何故、私を妻になど迎えたのですか? 私は源氏の将の娘、あなたは平家の御曹司。たとえ天地が入れ替わろうと、共に生きることは叶わぬさだめなのですよ」
ややあって、楓はポツリと言った。
「それとも、利用したのですか? 源氏方の娘だから、近づいて誘惑して、身体さえ奪った。私を手なずけて、こうして敵方の懐深くに飛び込むつもりだったと」
楓のすべらかな頬を涙がつたい落ちた。
「それは違う!」
時繁は振り絞るように叫んだ。
「断じて、それはない。最初はお前を河越恒正の娘とは知らずに出逢った」
楓は時繁の黒瞳の奥に紛れもない真実を見た。この瞳には嘘偽りの欠片もない。かすかな希望を見出し、彼女は良人を縋るように見つめた。
「知ってからは―」
その期待を込めた瞳から、時繁は耐えかねたように眼を背ける。落胆に楓の心は折れそうになった。
時繁は小さくかぶりを振った。
「知ってからは利用しようという気がなかったとはいえない」
「やはり、そうだったのですね」
怒りと衝撃に眼の前が一瞬、白く染まる。楓は初めて自分の頬が濡れているのに気付いた。この頬を濡らす涙は何のせい?
時繁に裏切られたことへの落胆? それとも、利用されたことへの怒り?
いいえ、違うと楓は自身に応えた。
私が何より哀しいのは利用されたことでも裏切られたことでも、ましてや騙されたことでもない。
私は時繁さまを心からお慕いしていたのに、時繁さまの方はただ復讐のためにだけ私を愛しているふりをしていたから。そう、私は彼が私を愛していなかったと知って、こんなにも辛い。
「違うのだ」
時繁が怒鳴った。もう、これ以上何も訊きたくない。好きな男が重ねる空言を聞きたくない。楓は踵を返し、時繁に背を向けた。
数歩あるいたところで、楓は後ろから強く抱きすくめられた。楓は身を捩った。
「放して下さい」
「頼む、これだけは聞いてくれ。愛している。初めて楓を見たそのときから、忘れられなくなった」
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ