華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
「私が? 入内なんて考えたこともありません。武家とはいえ平氏や源氏のような由緒ある格式の武門ならばともかく、私のような一介の武士の娘には思いも及ばないことです」
時繁が小さく笑った。
「だが、そなたほどの美貌であれば、後宮に入れば必ずや帝の眼に止まるだろう」
楓は良人の意を図りかねた。
「何故、突然にそのようなことをおっしゃるのですか? 私は栄耀栄華なんてしたくもありません。畏れ多い話ではありますが、私は一天万乗の君である帝よりも時繁さまのお傍にいる方が幸せです」
「楓は、ただ人の俺を愛してくれるというか」
その時、時繁の脳裡を駆け抜けた複雑な感情をまだこの時、楓が理解できるはずもなかった。
「姫さまが仰せでした。帝は日のように輝く美貌の御方ゆえ、早く入内したいと。正直、姉君の大姫さまは入内に乗り気ではいらっしゃいませんでしたから、下の姫さまのように無邪気に嫁ぐ日を愉しみにしているお姿を見ると、ホッとします。私は幸運にもこうして時繁さまとめぐり逢い、晴れて夫婦になることができましたから、やはり姫さまにもお幸せになって頂きたいと思うのです」
「俺の方こそ、楓のような妻を得て幸せ者だ」
時繁が呟くように言う。
「雲の上にお住まいの方について私などが知りようもありませんが、当今はそのようにお美しい方なのでしょうか? 時繁さまも整った面立ちをされていますし、世の中は美しき殿方が多いのかしら」
楓の無邪気な言葉に、時繁がまた感情のこもらぬ声で応えた。
「埒もないことを。兄弟でもあるまいに、俺たちのような一介の民と帝を比べるなど懼れ多いことだ」
「そうですね。つまらぬことを申しました」
しばらく静かな刻が流れた。先にその静寂を破ったのは時繁であった。
「楓、蓮の花はこのように濁った池からも汚れなき清らかな花を咲かせる。俺も心に降り積もった何もかも棄てて生きられたなら、どんなにか心平らかでいられるだろう」
時繁はひっそりと笑い、また視線を蓮池に戻した。
その哀しげな言葉の響きに、楓は堪らず言った。
「人は痛みを知るほど、強く優しくなれると申します。我が身が痛みを知るからこそ、他の人には優しくなれるのだと。だからこそ、時繁さまはお優しいのだと思います」
「楓とともにいて安らぐのは俺の方だ」
「何が時繁さまをそこまで苦しめるのでしょう?」
時折、彼が覗かせる孤独や翳り、それが彼をここまで追いつめている。楓はそう思えてならない。
時繁は首を振った。
「お前が気に病むことはない」
「私は時繁さまの妻です。あなたの苦しみや哀しみ痛みを少しでも取り除いて差し上げたいのです」
楓は時繁に寄り添い、蓮花を眺める。ふいに時繁に引き寄せられ、唇を奪われた。角度を変えて何度も口づけられ、呼吸すら奪うような烈しい接吻(キス)だった。
「時繁さま、こんな人眼に立つ場所で」
頼朝の御所で熱烈な口づけを交わすなど、誰に見られているか知れたものではない。もし頼朝に報告がいけば、ただでは済まないだろう。
非難するように睨んでも、長いキスで黒い瞳は潤み、唇は腫れている。おまけに唾液が糸を引いて唇の端からしたたり落ちていた。
「済まん、楓があまりにも可愛かったから、つい我慢がきかなくなった」
時繁は平然と言い、指の腹で楓の唇からしたたる唾液をぬぐった。
ふいに一陣の風が池面を吹き渡り、蓮の花たちがかすかに揺れた。あたかもざわめく楓の心をそっくりそのまま映し出したよう。
二人はいつまでも名残尽きぬように清浄とした花を眺めていた。
疑惑
季節は穏やかにうつろい、暑い夏が過ぎ、鎌倉の山々が澄んだ空気にすっきりと立ち上がる秋が来た。
河越の屋敷の庭も樹々が鮮やかに朱(あけ)の色に染め上がり、秋たけなわを感じさせる。そんな秋の昼下がり、楓は廊下に座り、仕立物にに精を出していた。師走に行われる鶴岡八幡宮の祭儀に良人時繁が身に纏うものである。
もう殆ど出来上がった。楓は時繁の小袖をひろげて四方八方から眺める。満足げに頷いた。これを着たときの時繁の美丈夫ぶりを思い描くと、つい一人でに笑みが浮かんでしまう。他人が見れば、一人でニヤニヤしていて、気味が悪いと思われるかもしれない。
芥子色の小袖には唐草模様。若い時繁にはいささか地味かもしれないが、かえって彼の美貌が際立つだろう。
楓は縫いかけの小袖を簡単に畳み、脇に置いた。立ち上がり、縁郎に佇み庭を眺める。風もないのに、赤児の手のひらのような紅葉がひらひらと舞っていた。地面は散り敷いた紅葉の絨毯が埋め尽くしている。
ひとしきり見事な秋の庭を堪能し、楓は厨房に脚を向けた。今宵の献立には御台所政子より下された柿を付けるようにと指示するのを忘れていたためだ。
娘時分は料理にはまるで関心のなかった楓だが、時繁という伴侶を得て、厨房にも頻繁に顔を出すようになった。海辺の小屋で暮らしていたときは自身で料理もしたので、今は時には自ら厨房に立つこともある。料理の上手な年嵩の侍女に教わりながら、少しずつ作れる料理の品数も増えていた。
これはやはり、愛する男に日々、美味しい手料理をふるまいたいという女心ゆえだろう。父時繁などは料理などしたことのない楓が厨房に立つようになったのを見て、
―さても、恋とは怖ろしきものよ。
と、口とは裏腹に成長した愛娘の姿に眼を細めた。
今朝、和歌山で採れたという珍しい柿が河越家に届けられた。数日前に早馬で和歌山の御家人から頼朝に献上された珍しい品だという。政子がその柿をわざわざ河越家にも下賜したのである。
いかに河越氏が将軍家から厚遇されていることが判るかというものだ。その珍しい柿を今夜は膳に付けるつもりだ。厨房に行きかけた楓はまたふと思い出した。縫いかけの小袖に針を刺したままにしてきた。今は幼い子がいないから良いが、誤って人が踏みでもしたら大変なことになる。とにかく一度部屋に戻り、針を安全な場所にしまった方が賢明だ。
楓は歩きながら、そっと腹部を押さえた。時繁と結ばれてから、七月(ななつき)が経とうしているが、まだ懐妊の兆しはない。ここのところ順調だった月のものが止まっているけれど、まだ懐妊と決まったわけではない。女の身体は心身のちょっとした変化で月事が狂うのはよくあることだ。
だが、月のものが来なくなって、そろそろふた月になろうとしている。一度、薬師に診て貰った方が良いのかもしれないと思い、また引き返して廊下を歩き始めた。手前まで戻ってきたその時、ひそやかに交わす声が耳に飛び込んできた。
「それでは手筈はそのように。あまりに繋ぎを取りすぎて、怪しまれてもまずい。今後は一切接触はせず、今一度、ひと月後に」
「そのときが憎き頼朝の命運の尽きる日でございますね。それでは、その折までに薬を調達致します」
顔は見ずとも、一人はそも誰であるかは判った。時繁に違いない。しかし、今ひとりは誰なのか? 声そのものは低くもなく高くもなく、男か女か判別はつかなかった。
そこで楓は足を踏み出していた。時繁が人知れず親しげに言葉を交わしている相手を突き止めずにはいられなかった。が、次の瞬間、彼女は我が身が取った行動を心から悔いた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ