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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「そして、貴様は平氏を滅ぼした弟すら殺した。我が血を分けた弟を誅するとはいかにも畜生にももとる非道な行いではないか」
 恐らく頼朝はむろん、付き従う家臣にも聞こえはしなかっただろう。傍にいた楓でさえ、空耳かと思ったほどなのだ。しかし、楓にしてみれば、別の意味でその呟きが幻聴であれば良いと願わずにはいられなかった。
 黄泉の国から響いてくるような冷徹な声は聞く者の心を芯から凍らせる。そっと窺い見た時繁の美しい貌は淡く微笑んですらいた。まるで誰もかもを魅了する氷のように妖しくも蠱惑的な笑みだ。
 別人のような良人の変貌ぶりに、楓はおののいた。不吉な予感が押し寄せ、一向に鳴り止まない海鳴りのように胸騒ぎがしてならなかった。
 その後、楓はまた御台所政子に呼ばれて奥向きに伺った。
 奥向きには政子とそれに、次女の三幡姫が待ち受けていた。
「御台さま、姫さま、お久しぶりでございます」
 政子はけして美人というタイプではない。しかし、闊達な気性がそのまま容貌にも反映され、十人並みの容色をそれ以上に見せていた。
 楓が手をついてしとやかに挨拶すると、政子は明るく微笑んだ。
「よう参った。一時は行方知れずと聞いたに、まあ、ようも無事で」
 手招きされ、楓は親しく政子の傍に行った。子どもの頃から御所には何度も上がった。特に政子には幾たりとなく目通りをし、可愛がって貰ってきたのである。
 政子は更に差し招いた。
「こちらへ」
 楓は頷き、膝行した。すぐ傍まで来ると、楓の手を両手で押し頂き、実の娘に対するように髪を撫でた。
「それにしても、楓は美しうねびまさったものよ。私が最後に見たそなたはまだ、いかにも子どもであったがのう。恋とは惚れた男とは、そこまでおなごを変えるものか」
 政子は呟き、気丈な彼女には珍しく声をつまらせた。
「大姫が去年の夏にみまかった。高名な医師も高直な薬も効果のありそうなものはおよそすべて試してみたが、薬石効もなく、まだ十八であった。この母が代われってやれるものならば代わってやりたかったが。あの娘はずっと義高どのの面影を引きずっていたゆえ。殿も酷いことをなさった。義仲どのはともかく、何も年少の義高どのまで殺すことはなかったのじゃ。殿の酷い所業への天罰を代わりに大姫が背負うて逝ったのよ」
 頼朝と政子の間に生まれた長女大姫は去年、十八歳の若さで亡くなっている。幼少の砌、木曾義仲の息子義高と婚約し、筒井筒の仲であったにも拘わらず義高は頼朝によって惨殺され、幼い恋は無残に潰えた。
 むろん頼朝の従弟に当たる義仲も頼朝に殺された。一体、頼朝という人はどこまでも猜疑心の強い傾向がある。彼が真に信頼しているのはこの政子だけなのだ。
 政子が天罰というのは、源氏がこうやって骨肉であい争い、頼朝は血で血を洗った上に幕府を築いたことを指すのだろう。
 政子の眼には光るものがあった。
「されば、せめて楓だけでも想うた男に添わせてやりたかったのじゃ。大姫のように報われぬ恋に一生身を灼いて、若い生命をむざと散らすのも哀れ。だが、今のそなたを見て安堵したぞ。そなたは惚れた男に愛されて幸せそうに輝いておる。この上は早うに跡取りを儲け、恒正を安心させてやりなされ」
 政子はもう泣いてはいなかった。晴れやかな顔で笑っている。
「むろん、御所にも孫の顔を見せにくるのは忘れぬようにな」
 と、念を押すのも忘れない。頼朝とは相反する心からの祝いの言葉に、楓もまた涙を滲ませた。
「御台さまのありがたいご諚(じよう)、この楓終生忘れませぬ」
「何を水くさいことを申すのじゃ、そなたは我が娘も同然ではないか。それに、その物言いはいかにもこれが今生の名残のようだぞ。このめでたいときに、そのような不吉なことを申してはならぬ」
「めでたいといえば、御台さま、この度は姫さまのご入内が内定されたとの御事、真におめでとう存じます」
 それには政子も更に顔をほころばせた。
「おお、これで私も娘の嫁ぐ晴れ姿を見られそうじゃ」
 京におわす後鳥羽天皇には元々、姉の大姫が入内する予定であった。天皇の後宮に娘を納れ、娘の産み奉った皇子を次の天皇に―、かつて平清盛が実践したことを頼朝もまた夢見ていたのだ。
 頼朝にとって平家討伐の次の目的は京都の朝廷において多大な影響力を持つことであった。そのための布石として、長女大姫の入内は早くから準備が進められていたのだが、いかにせん、当の大姫が亡くなった。そのため、頼朝は次女三幡姫を入内させることにし、既にそれも内定しているとのことだ。
 現に頼朝は今年の春にも一度、上洛し鎌倉よりの公卿たちと親交を深め、入内のための下準備を着々と進めていた。早ければ翌年にも入内の運びとなるという話だ。
「姫さま、おめでとうございます」
 楓が今度は三幡姫に祝辞を述べるのに、まだ十二歳の姫はあどけない様で笑った。
「京は鎌倉にはない様々に珍しいものがあると聞いております。帝はたいそうお美しく、照り映える日のように輝いてあらせられるとか。帝にも早うにお逢いしたい」
 政子が?これ?と姫をたしなめた。
「嫁入り前にはしたないことを申すでない」
 口調とは裏腹に、政子の姫に向けるまなざしは限りなく温かい。昨年の大姫の哀しい逝去を思えば、無理もないことだ。
 母子の情は将軍家も名もない民も変わりはなく、微笑ましいものだ。楓は微笑み、政子に言った。
「既に女御の宣旨も帝より賜っているとか、これからはもう姫さまではなく、女御さまとお呼びしなければなりませんね」
 これには政子がホホと笑い声を上げた。
「それはまだ気が早いというものじゃ」
 こうして久方ぶりの対談は和やかに終わった。政子からは結婚祝いとして見事な小袖、打ち掛けが贈られた。打ち掛けは薄紅の地色に純白でしだれ桜が描かれた見事な逸品だ。小袖は萌葱色で上半身は白、裾へいくにつれ、色合いが微妙な濃淡を見せている。政子には幼時から言葉だけでなく、本当に心からの労りをかけて貰っているので、楓は素直に嬉しかった。

 政子への挨拶も滞りなく終わり、すべて首尾良く終わった。軽い疲労感を憶えて楓は御所の庭へ良人を捜しにいった。政子の許を辞す際、侍女が
―河越時繁さまは庭でお待ちとのこと、表より伝言を承りました。
 と伝えてきたからである。
 表の庭は今、蓮花が盛りであった。まだ昼時には間があるとて、純白、或いは濃いピンクの蓮が大きな池に所狭しと咲き誇っている様はまさにこの世の極楽、圧巻といえる。
 見慣れた上背のある良人の姿を認め、楓の声は弾んだ。
「時繁さま」
 時繁が振り向く。楓は彼の許に駆け寄った。
「御台さまとのご対面はどうだった?」
「無事に終わりました。御台さまも姫さまもお二方ともお変わりなく」
 楓は微笑み、政子との会話を良人に伝えた。
「姫さまは来年には入内されるそうです」
「そう、か」
 花を眺めていたらしい時繁は抑揚のない声で応える。その話題にさして気があるようではなかった。蓮見の邪魔をしてしまったかと楓が後悔した時、唐突に時繁が言った。
「お前は―楓は、入内したいと願ったことはあるか?」
 予期せぬ問いに、楓は眼を丸くした。