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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「御所さまは一度こうと思われたら、なかなか周囲をご覧にならぬが、御台さまは女人にしておくのは惜しいほど、ひらけた見識とお心をお持ちだ。鎌倉どのはほんに、得難い方を伴侶となされた。御所さまに仕える御家人はあまたおれども、御台さまほどの名参謀は他におるまいよ」
 それは暗に生真面目な頼朝は政子の補佐あってこその将軍だと言っているようなものだ。長年、頼朝の傍にある恒正だからこその言葉かもしれない。
 最後に、恒正は黙って控える時繁に言った。
「政は女の気を惹くのとは違う。わしは、そなたに大切な娘とこの河越の家を委ねたのだ、心して励め」
「はっ」
 時繁は慇懃に頭を下げ、楓は漸く愁眉を開いたのだった。 

 こうして、時繁は正式に河越氏の婿養子として認められた。楓が既に北条時晴と婚約した身で蓄電、時繁と夫婦になったことについて、頼朝は道義に反していると依然として不快感を抱いていた。そのため、時繁を婿とすることにも異を唱えたのだが、この度も御台所政子の口添えがあり、無事、時繁は婿となり、河越四郎時繁と名を改め、?鎌倉どの?の正式な家臣となった。
 時繁が直接仕えるのは舅である恒正だが、結局、頼朝の臣下の一人となったことに変わりはない。
 すべては順調にいっていた。楓にとって再び幸せな日々が戻ってきたかに見えた。が、楓は時繁の微妙な変化を見逃さなかった。一見、それまでと変わりないように見えるが、別人のように厳しい表情をしばしば見せるようになった。 
 よもや、それが敵の懐に飛び込んだ時繁の葛藤―理想と現実への相容れぬ心から起因しているとは知る由もない楓だった。その良人のわずかな変化はよくよく注意して見ていなければ、うかと見落としてしまうほどのささやかなものだ。けれど、楓には、そのほんのわずかな変化が何か咽に刺さった小骨のように気になってならなかった。
 暦が七月に変わったその月の半ば、楓は良人時繁と共に御所に参上した。結婚の挨拶と同時に時繁が改めて家臣となったことに対するお礼を兼ねたものだ。
 拝謁が伸びたのも、やはり頼朝が逢いたがらなかったせいだと聞いているが、とにかく、やっと拝謁が叶って、ひと安心だ。幕府に仕える武士がすべてお目見えできるわけではない。鎌倉どのに拝謁できるのはごく一部の限られた重臣・近臣のみである。
 今日、時繁がこうしてお目通りできたということは即ち、これをもって彼が名実ともに河越氏の跡取りとなったことを示すのだ。
 広大な広間で、二人はかなり長い間、待たされた。やがて衣擦れの音とともに、
「御所さまのおなりにごさいます」
 と、先触れの声があり、続いて頼朝が若い家臣を従えて入ってきた。今日の頼朝は渋茶色の狩衣を纏っている。
「苦しうない」
 その声で、並んで平伏していた二人は顔を上げた。
「そちがこたび、河越の婿となった時繁か?」
 ぞんざいに訊ねられ、時繁は恭しく頭を下げた。
「さようにございます。この度は鎌倉どののご尊顔を拝し奉り、恐悦至極にて」
 頼朝は時繁を無遠慮に眺め、更に視線を楓に移した。
「なるほど、楓を骨抜きにしたほどの男ゆえ、どのような色男かと思うておったが、流石に女を籠絡するだけの美男よの。楓、わしは弟同然に思うておる恒正の娘であるそなたをも我が娘と思うて参った。それゆえ、北条との縁組みを進めたのじゃが、どうも楓にはかえって迷惑だったようだの」
 今ここで持ち出す話題でもなかろうに、ねちねちと嫌みたらしく繰り返す頼朝の心が量れない。楓は戸惑い、縋るような瞳で時繁を見た。
 と、時繁がわずかに膝をいざり進めた。
「時に御所さま、私のような若輩者は鎌倉どのの数々の眩しいほどのご功労を昔語りにお聞きするだけなのは、いかにも口惜しうございます。どうか御所さまのご戦績をわずかなりともお聞かせ頂ければ末代までの栄誉となり、子々孫々までに語り継げましょう」
 これには頼朝も気勢をそがれたようで、?うむ?と黙り込んだ。頼朝はどちらかといえば線の細い優男である。武芸を嗜む武士というよりは、見た目は公卿のようでもあった。栄華を誇った平家を壊滅させ、幕府をひらいたと彼を英雄視する向きもあるが、少なくとも外見はそれほどの偉業をなすだけの豪傑とは見えなかった。
 頼朝は頭脳派の武将である。平家を壇ノ浦で完膚なきまでに敗北させたのは頼朝ではなく、義経だ。その時、頼朝は鎌倉にあった。この二人の兄弟は頼朝は頭脳派、義経は行動派。つまり、頼朝は頭で戦をし、義経は感性と閃きで戦をする。
 何事も理路整然と理詰めで考える兄に対し、弟は奇襲など相手の意表をつく戦法を次々に打ち出すことで勝利を勝ち取る。その性格の相違が兄弟の袂を分かつことになり、義経は頼朝に惨殺された。
 神経質で猜疑心の強い頼朝を常に傍で支え、彼の足りない面を補ったのはむしろ妻政子であった。政子もまた強烈な個性を持った女性である。女は屋敷の奥に引きこもっているのが常識であった当時、常に表で良人の傍に寄り添い、男たちを相手に互角に議論を戦わせ、時には周囲を圧倒するほどの意見を繰り出した。
 頼朝は時繁の願いに気を良くした様子であった。小さく頷くと、いきなりしゃべり出した。
「わしにとって忘れられぬと申せば、やはり、十三年前の源平の戦よのう。驕り高ぶった平家の滅亡は当然の理であり、我ら源氏が正義の鉄槌を神仏になり変わり下したのだ」
 時繁は淡々と訊ねた。
「真にそうなのでしょうか?」
「なに?」
 時繁の質問は聞き様によっては、頼朝に異を唱えると受け取られても仕方のないものだ。
 逆らわれることに慣れてない頼朝の顔色が瞬時に変わった。楓はハラハラして傍らの良人を見た。大切な初のお目見えで頼朝の不興を買うようなことを言うべきではない。それでなくとも、時繁や楓に対して頼朝は不快感を隠そうとしないといわれているのに。
 言外にそう良人を諫めたつもりだったのだが、当の時繁は涼しい顔で続けた。
「神仏になど誰もなれはしない。たとえ一天万乗の君である帝さえも」
 頼朝が眼を眇めた。
「そなた、何が言いたい?」
 一瞬、緊張が走った。時繁はその場に手をついた。
「私が申し上げたいのは、神仏にもできない偉業を御所さまが見事成し遂げられたと」
 見事な落ちに、頼朝がホウと息を吐いた。その場の緊張が一挙に緩み、楓は人知れず息を吐いた。
「なるほど、そういうことか。若いのに、回りくどい言いようをするヤツよの。面白い。恒正もなかなか気骨のある婿を迎えたものだ」
 頼朝は時繁の機転の利いた科白がたいそう気に入ったらしく、その場で手ずから砂金と蒔絵細工の文箱を賜った。家臣が運んできそれらは高坏に載っていた。時繁は腰を低くして御前にいざり進み、一礼した後、恭しく押し頂いた。
 その洗練された所作はどう見ても、漁師が昨日今日、にわか武士になったとは思えない。ここでも楓は時繁の正体を訝しんだ。
 その後、まず頼朝が退出した後、時繁らも辞した。だが、楓は確かに聞いたのである。頼朝が家臣を従えて出てゆく間際、隣の良人が聞き取れぬほどの低声で囁いたのを。