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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 その恒正の眼に、時繁とい若者は到底、ただの漁師には見えなかった。慎ましやかにふるまっているが、生まれ持った気品や存在感は隠せるものではなく、隙のない身のこなしや鋭い視線は紛れもなく武士のものだ。
 だが、何故、武士が漁師と身分を偽っているのか。それが判らない。
 ただ、一つだけいえるのは、娘の楓がこの男を恋い慕っているという事実だけだ。楓が北条時晴との縁組みを嫌って蓄電したときは、たいそう怒りもしたが、今となっては、悪評しかない男に娘を無理に縁づかせようとした己れが招いた不始末だと反省している。
―仕方ない。楓があれほど惚れておる男をむざと殺すこともできまい。このまま追い払っても良いが、それでは楓は今度こそ自害でもするやもしれぬ。
 それにと、恒正は眼前の若者をつぶさに観察しながら考えた。
―この男、使いようによっては河越家の役に立つやもしれまいて。
 短い時間ではあったが、恒正は時繁の言動はずっと見てきた。他人の心を読むことに長け、物事の機微を鋭敏に察知することのできる男だ。
 だが、恒正はこの若者に腹の内をさらけ出すつもりは毛頭なかった。
―面を上げるが良い。
 その言葉で、漸く時繁は伏せていた顔を心もち上げた。
―何ともはや、我が娘を上手く手なずけたものよのう。
 聞きようによっては手練手管で娘を骨抜きにし誑かしたと時繁を侮蔑する科白とも取れたが、時繁の表情は微塵も揺るがなかった。
 彼の様子を見守る恒正の前で、時繁は淡々と言った。
―そのお言葉は私ではなく、他ならぬご息女を愚弄するもの。楓はあなたさまの娘であるとともに、既に私の妻にございます。妻を愚弄するようなお言葉はお慎み願います。
 その鮮やかな切り返しには、海千山千の恒正も唸った。
 そのひと言で、恒正の心は迷いなく定まった。
―我が娘と河越のゆく末をこの男に託してみようぞ。
 恒正は再び時繁を伴い、娘の待つ広間へと戻った。今頃、楓はこの男の安否を気遣い、やきもきしていることだろう。
 だが、掌中の玉と愛でる娘が突如として失踪してしまった後、父が味わった不安と絶望を考えれば、多少は楓をやきもきさせたところで罰は当たるまいと、およそ大人げないことを考える。
 それにしても、と、恒正は感慨深く思った。
 あの幼い娘が恋をするとは。先刻、時繁を別室に連れて行くと告げたときの娘の取り乱し様は尋常ではなかった。いかに娘がこの男に惚れているかを親として思い知らされた瞬間だった。
 昔から、楓は賢い子だった。親馬鹿であることは重々承知だが、それならば、恒正は父として娘の選んだ男に賭けてみようと思ったのである。
  
「楓」
 河越の屋敷に戻ってきてからの慌ただしい出来事を思い出していた楓は、父の声で現に引き戻された。
「はい」
 居住まいを正した娘に、恒正はわざと渋面を拵えて重々しい声音で告げた。
「時繁はなかなか見所のある若者だ。わしも思うこと言いたいことは山のようにあるが、既にこうなってしまったことを今更とやかく申しても致し方あるまい。また、男女のことはとかく思うようにはならぬもの。わしは時繁を選んだそなたを信じることにする」
 刹那、楓は眼を潤ませた。またたきをした瞬間、はらはらっと涙の粒が零れた。
「お父さま、本当にごめんなさい。祝言の前夜に逃げ出したりして、お父さまに恥をかかせて困らせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
 楓は涙を零しながら、その場で深々と頭を下げた。
 恒正は笑った。今日、初めて見る父の笑顔に、楓は胸が熱くなった。
 町の市で、野菜売りの老婆から父が病の床にあると聞いたときには愕いたが、意外にも恒正は以前より更にかくしゃくとしているようだった。後に判ったことだが、半月ほど前、恒正は急な食あたりで数日、寝込んだことがあった。
 普段が頑健そのものであるため、下々の使用人たちの間では、
―殿は姫さまのご不在で、気落ちのあまり床につかれた。
 ということになっていたらしい。 
 野菜売りの老婆はその誤った情報をそのまま鵜呑みにして古着屋に喋った。それをたまたま買い物にきた楓が聞いたというわけだ。
 が、よくよく考えてみれば、その誤った噂のお陰で屋敷に戻る決意もでき、こうして時繁と晴れて夫婦になることを父から許して貰えた。人生、何が幸いするかは知れたものではない。 
「北条家との縁組みをそこまでそなたがいやがってるとは思わなかったのだ。幾ら探させても見つからぬゆえ、自害でもして人知れず果てているのではと諦めていた。また、いずこでひっそりと生きておるならば、それでも良いともな」
 時繁のその言葉で、何故、楓失踪後の探索があんなにも早く打ち切られたかも判った。
 時繁は慈愛に満ちた父の顔で楓に言った。
「そこまでそなたを追いつめたと、わしはかえって自分を責めていたのじゃ」
「お父さま―」
 涙ぐんだ楓に、時繁は頷いて見せた。
 楓は少し迷った末、気になっていたことを口にした。
「北条さまの方は大丈夫なのでしょうか?」
 時政は?鎌倉どの?と呼ばれる将軍頼朝の義父であり、次代の将軍の外祖父である。その時政をさぞ怒らせ、ひいては河越氏に対する心証を著しく害したのは違いなかろう。
 皆まで言わずとも、恒正は楓の気持ちを察してくれたらしい。笑いながら首を振った。
「もう、良いのだ。時政どのにはさんざん嫌みを言われ、御所さまもご不快を示されていたのだが、意外なところから助け船が出てな」
 楓は眼をまたたかせた。
「意外なところから?」
 恒正は破顔した。
「御台さまがお口添えをなさって下されたのだ」
「御台さまが―」
 楓は茫然として呟いたが、潔癖で神経質なところのある頼朝を政子は常にその傍らにあり、宥め、取りなしている。大らかな性格の政子ならば、あり得る話だと思った。
「さよう、御台さまが御所さまと時政どのに仰せ下さったのだ」
―殿、若い者たちの考えることは今も昔も同じにございますよ。
 訝しげな面持ちの頼朝に対して、政子は婉然と微笑んだという。
―私たちもその昔、父上がお決めになった縁談をふいにして、駆け落ちのように一緒になったではありませんか。思えば、あの頃が私の生涯でいちばん幸せな時期でもありました。歳を取れば若いときの情熱など忘れがちですが、時には思い出して若い者たちに情けを示してやるのも鎌倉どのとして、殿のご威光をますます高めることになりましょう。
 当時、伊豆の目代山木兼隆に嫁すはずだった政子は、祝言を目前にして嵐の夜、恋仲だった頼朝の許へ走ったという過去がある。当時としては非常に珍しい情熱的な恋愛結婚であった。
 また、傍らの時政に対しては、
―父上、あの頃は父上も怒り心頭に発しておいででしたが、私が頼朝さまに嫁いだことで、北条の家も将軍家の外戚となることができたのです。人生、何が福となるかは判りませぬ。
 これには流石の頼朝と時政も参ったらしい。頼朝は暑くもないのに扇を出して何やらパタパタと顔を扇ぎ出し、時政はいかつい猪のような顔を真っ赤にして黙り込んだそうだ。
 時繁は愉快げにそれらの逸話を語った後、こう締めくくった。