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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 楓は唇を戦慄かせた。愛する時繁がここまで言ってくれたのは嬉しい。けれど、河越の屋敷に脚を踏み入れて、時繁が無事でいられるとは思えない。楓は北条時晴との祝言前夜に屋敷を抜け出し、時繁の許に走った。
 時繁は楓の氏素性、北条との縁組みを知った上で楓を抱いた。父がそれを知り、時繁を許すはずもない。まず彼の生命はないだろう。
「さりながら、時繁さま」
 何か言おうとする楓を時繁は眼で制した。
「もう、何も言うな。仮に親父どのが俺を殺せば、所詮は俺の命運もそこまで、早々に尽きる宿命だったということになる。天の導きが真にあるなら、俺はまだ死なない」
「本当によろしいのですか?」
 楓のまなざしに、時繁もまた、まなざしで応えた。それに、楓は判っていた。時繁は優しいけれど、その意思は誰よりも強固だ。最早、楓が何をどう言って説得したところで、時繁の意思を変えることは不可能だ。
「時繁さま」
 楓は濡れた瞳で良人を見上げた。
 せめて今夜だけは、何もかも忘れてこの男の腕の中にいたい。その想いが楓から恥じらいも何もかも消していた。
「抱いて下さい」
 その夜、二人はこれまで以上に烈しく求め合った。潮騒がかすかに鳴り響く浜辺の小屋で、二人は夜明けまで幾度も共に昇りつめ、互いを満たし合った。

 復讐のとき

 先刻から、恒正は苦い薬でも飲んだような顔で端座している。二人きりになって、かれこれ四半刻になろうというのに、咳(しわぶき)一つしない。広い室内は、どうにもやり切れないほどの沈黙が張りつめていて、楓はこのままでは押し潰されそうだ。
 そっと隣の時繁を窺えば、彼の方は真正面を見据えたまま、これもきちんと正座している。その視線は上座の恒正に向けられているようで、その実は恒正よりやや外れていた。目上であり、初対面の相手をあまりに不躾に眺めすぎないようにとの配慮であることは判った。
 さて、これだけ細かな気配りのできる時繁を、父がどのように見るか。それだけは楓は気掛かりであった。
 既にこの前、時繁は父と二人だけで半刻ど話をしている。楓が時繁を伴い河越の屋敷に戻ったのは今朝のことである。門前払いを喰らわされるか、良くて自分だけが中に招じ入れられると覚悟していたにも拘わらず、あっさりと二人共に屋敷内に入ることを許され、拍子抜けした。
 が、逆に、何ゆえ、父が時繁を屋敷に入れたのか、その意図も計りかねた。最初に通されたのもこの部屋で、長らく待たされた後、漸く父が姿を現した。時繁も楓も平伏して恒正を迎えた。
 父はざっと二人を見下ろし、楓に向かって
―よく帰ってきた。
 それだけ言い、時繁に顎をしゃくった。
―少し、そちらの男と話をしたい。二人だけで話させてくれ。
 しまいはまた楓の方に向いて言った。
 刹那、楓は自分で思い返しても恥ずかしいほど取り乱した。
―それは何故ですか? よもや父上は時繁さまを殺すおつもりでは。
 時繁は素直に恒正の言に従い、立ち上がった。
―少し父御と話をしてくる。
 楓に安心させるように微笑みかけたのだが―。楓は半狂乱になった。
―時繁さまッ、行ってはなりませぬ。
 時繁に取り縋り号泣する娘を恒正は呆れたように眺めていた。
―我が娘はそなたによほど惚れていると見える。さても、厄介なことになったものよ。
 時繁はいつものように楓の髪を撫で、優しく言い聞かせるように囁いた。
―私は死なない。ちゃんと楓の許に戻ってくる。
 楓は泣き泣き頷き、やっと時繁の小袖を掴んでいた手を放した。今日、時繁が纏っているのは楓が丹精込めて仕立てた狩衣だ。浅黄色に幸菱が散った柄で、少し精悍で端正な面立ちの時繁にはよく似合っている。
 その狩衣を着た彼を初めて見た瞬間は、息を呑んだほどだった。それほど時繁には生まれながらの品というものが備わっている。それは単に着物を上物に替えただけではない、彼という人間の内側から滲み出る光輝のようなものであった。
 家宝の宝刀の正式な継承者という彼自身の言葉からしても、時繁はいずれ名のある武家の子息に違いない。楓にはある種の不安があった。
 時繁が幼い頃、入水したという話だ。時繁がいつ入水したのは判らないが、話しぶりから、まだ頑是ない幼子の頃ではないかと推察された。時繁がその年頃の時分は丁度、平家と源氏が闘った時期と一致する。更に入水といえば、平家が壊滅した壇ノ浦の悲劇を厭が上にも思い出す。
 もしや時繁は平氏の若君なのではないだろうか。その疑念が芽生えたのも当然ではあった。 
―時繁さまは何ゆえ、鎌倉に来られたのですか?
 楓の問いに、時繁は間髪を入れずに応えた。
―宿願を果たすために。
 あの宿願というのが何を意味するのか。楓は考えるのも怖ろしかった。時繁が平氏の若君ならば、彼が最もこの世で憎むのは源氏だ。そして、楓の父恒正は明らかに源氏の将であり、楓は源氏方の娘であった。
 だから、楓は無理に時繁の素性について考えまいとした。
―時繁さまと離れて、生きてはいけませぬ。
 彼に告げた言葉は誇張でも何でもない。楓は今、彼と引き離されたら、生きてはいけないだろう。それほどに時繁を愛してしまった。
 結局、時繁は不安に怯える楓を優しく宥め、楓は父と別室に赴く時繁を大人しく見送った。恒正は時繁の一挙手一動を鋭い眼で注視していた。
 二人が去った後、入れ替わるように、さつきが現れた。放心したように宙を眺めていた楓はいきなり現れた乳母を惚けたように見つめていたが、やがて、その瞳に涙が溢れた。
―さつき。
―姫さま。
 二人はひしと抱き合い、泣いた。さつきが語ったところによれば、楓の失踪後、恒正は特にさつきを処罰することはなかった。むろん、恒正のことだから、さつきがわざと楓を逃したのは知っていたはずだが、表向きは乳母は姫君の失踪は知らず、姫一人が勝手になしたこととされたのだ。
―あの方が姫さまのお選びになった方なのですね。なかなか秀でた良いお顔立ちをなさっておられます。
 さつきに時繁を褒められ、楓は我が事のように誇らしくもあり、頬を染めた。そんな楓の髪ををさつきは愛おしむように撫でた。
―あのおん幼かった姫さまがこのように大人の女性の表情(かお)をなさるようになるとは、このさつきも歳を取るはずでございますよ。
―時繁さまは大丈夫かしら。
 それとなく胸の不安を訴えられるのも心を許したさつきだからだ。それに対して、さつきはにっこりと笑った。
―殿は姫さまをわざと逃した私でさえ、お咎めにはならなかったのです。大丈夫でございますよ、きっと、あのお方はご無事です。
   
 楓とさつきがそのような会話を交わしている頃、別室では恒正と時繁が対峙していた。
 恒正は鼻下にたくわえた髭を無意識に撫でつつ、下座で手をつかえる若者を見つめていた。
―この男、ただ者ではない。
 恒正は父祖の代から源氏に仕えてきた。頼朝には十代の頃から仕え、その流人時代も影のように寄り添ってきたのだ。いわば源氏の御家人の中でも筆頭格である。当然、頼朝の傍にあって、様々な労苦も重ね、人を見る眼も長けている。