華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
古着屋はおどけたようにピシャリと我が手で広い額を叩いた。随分と芝居がかった仕種だ。
「マア、あの倅にはとかくの悪評があるし、姫さまとの縁談が持ち上がる前から既に側妾との間に子が三人もおるというぞ。そのようなうつけに嫁がずに済んで、姫さまは幸いじゃった。河越の殿さまも気の毒に、ゆく方知れずの姫さまを案ずるあまり、気鬱の病に倒れたというからの」
それから少し、別の話をして、老婆は漸く自分の持ち場に帰っていった。
古着屋の主人が楓に声をかけてきた。
「待たせたな、で、決まったかい?」
楓は選んでおいた単布と引き替えに銭を払い店を後にした。
浜辺の小屋までの道のりをどうやって帰ったのかも判らなかった。それから数日というもの、楓は沈み切っていた。そのことに敏感な時繁が気付かぬはずがない。
五日目の夜、夕餉がいつもより早くに終わった後、楓は仕立物の続きをしていた。むろん、時繁の狩衣を縫っているのである。
「―えで、楓」
焦れたような声に、楓は弾かれたように顔を上げた。
「あ、どうかしましたか?」
眼前に時繁の整った面が迫っていて、楓は慌てる。時繁は苦笑していた。
「お前、俺に何か隠し事をしているな。先刻から幾度呼んでも、返事をしない」
「そんなことはありません」
時繁の深い瞳には何もかも暴かれてしまいそうで、楓はさっと顔をうつむけた。
「嘘をつけ。楓がここ数日、ずっと沈んでいたのは知っているぞ」
楓が黙り込んだのを見て、時繁はあからさまな溜息を吐いた。
「楓が強情なのは知っている。だが、俺はこれでも、いつもそなたの傍にいて誰よりもお前を見ている。お前がいつもと違うのくらいは判る」
楓は胸をかすかに喘がせ、顔を上げた。その眼に見る間に大粒の涙が溢れたので、時繁は動転した。
「どうしたんだ! 俺の言い方はそんなにきつかったか? 何も別に怒ったわけではなく―」
楓の涙には弱い時繁は慌てふためいている。楓は首を振った。
「違うのです、そうではないのです」
時繁がポカンとして楓を見つめる。
「なに? 俺のせいで、泣いたのではないのか?」
「実は数日前、町に出かけました」
怒られることは覚悟で、楓は外出のことから、古着屋と老婆の話までを時繁に打ち明けた。
時繁はじっと楓の話に耳を傾けていたが、すべてを聞き終えて難しい表情で腕組みをした。
「それで、楓はどうしたい?」
え、と、楓は時繁を見返した。時繁が薄く笑った。
「あれほど一人で外出してはならないと言ったのに、楓が町に出かけたことも愕いたが、今はそんなことを話している場合じゃない。親父どのが病に倒れているというのなら、楓は帰りたいとそう思っているのではないか?」
楓は大粒の涙を零しながら、烈しく首を振った。
「時繁さまは何故、そのような残酷なことを平然とおっしゃるのです? 私は河越の父も心配です。さりながら、時繁さまのお側を離れたくもない。時繁さまも今は父と同じくらい大切な方だから」
時繁が淋しげに微笑む。時折、彼の美麗な顔にちらつく翳りがいっそう濃くなった。
「だが、親父どのが病に倒れたと知った今、俺はお前をここに縛り付けておくことはできない。楓、俺も辛いんだぞ」
彼は小さく息を吸い込んだ。
「思えば、俺はいつかこんな日が来るとどこかで覚悟していたような気がする。大切な人、愛する者たちはいつも俺だけを置き去りにして去ってゆく。だからこそ、俺は長い間、誰も愛さず求めず、ひっそりと一人で生きてきた。だけど、お前に出逢って、楓を愛してしまった」
楓は泣きながら時繁に縋り付いた。
「私はいや、時繁さまのお側を離れたくない。屋敷を出る時、父とはこれが今生の別れになると私も覚悟して出て参りました。ですから、屋敷にはもう戻りません。戻ったら、父の顔を見るだけでは済まないもの、父は必ず激怒して時繁さまと私の仲を裂こうとするでしょう。私はそんなのは耐えられません。時繁さまと離れるくらいなら、海に飛び込んで死にます」
泣きじゃくる楓の背を撫でながら、時繁が低い声で言った。
「間違っても海に入ろうなどと言うな。楓は入水するのがどれだけ苦しいか、知らないだろう? 水に飛び込んだ途端、呼吸もできなくなって、生きながらの地獄を見て本物の地獄に行くことになる。俺の大切な人たちも―祖母や伯父たちは入水して亡くなったんだ」
楓は怖ろしい予感に顔を上げ、時繁を見つめた。
「もしや、時繁さまもその時、ご一緒に?」
時繁がかすかに頷いた。
「何の因果だろうな、俺だけが一人、陸に打ち上げられて助かった。俺を助けてくれたのは流れ着いた先の漁師だった。最初は溺死した幼い子どもだと思い込んだそうだが、虫の息があったので、蘇生処置を施したのだと聞いた。俺は大量の水を吐いて、息を吹き返した。俺を助けてくれた漁師は本当に奇蹟のようなものだとその後、何度も言っていた」
その漁師の養子となり、時繁はそこで成長したのだという。故あって十五の時、育ててくれた両親に暇乞いをし、ここ鎌倉の地に来たのだと語った。
「お前が行李の底で見つけた品は、俺が暇乞いを告げた時、両親が渡してくれたものだ。俺が流れ着いた傍に、これも同様に流れ着いていたそうだ」
時繁が眼をしばたたいた。
「養父も養母も優しい人たちだった。あのまま漁師の倅として一生を終えれば、平穏な生涯が送れただろう。養父がよく言っていたよ。家宝の宝刀は持ち重りのするものなのに、海の底に沈まず俺と一緒にほぼ同時に見つかった。俺が助かったのと同じように、宝刀が俺とともにあったのも奇蹟のようなものだと笑っていたな。人倫にもとる行為を天はけして認めない、だからこそ、正当な宝剣の継承者である俺と共に宝刀が現れたのだと」
楓は涙をぬぐった。
「時繁さまはきっと由緒ある武家のご子息なのですね。下級武士の子だというのは嘘。鎌倉には、何ゆえ来られたのですか?」
時繁が楓を見つめた。
「宿願を果たすために」
楓は何故か、時繁のその瞳を怖いと思った。何かを一途に思いつめたような光が閃くその瞳の底に燃えるのは間違いなく復讐の焔だった。
時繁はそれからしばらく寝転んで眼を瞑っていた。眠っているのではないことは判っていた。思案の邪魔をしてはならないと楓は傍らで狩衣を縫い続けた。
唐突に時繁が眼を開いた。彼は身を起こし、?楓?と妻の名を呼んだ。
「お前はどうしても俺と離れたくないと?」
楓はコクリと頷いた。
「あなたさまにいつか申し上げました。たとえ、あなたが私に飽きて出ていけと仰せになっても、私は出ていきません」
時繁が小さな声で笑った。
「俺がお前に飽きる日が来るはずがないだろう。俺はもう楓なしで夜は過ごせない」
楓の白い頬に朱が散った。
「もう! こんなときにご冗談は止めて下さい」
頬を膨らませた楓に手を伸ばし、彼はいつものように人差し指でつついた。
「ならば、俺も共に参ろう」
「え―」
楓は針を持つ手を止めた。
「俺は楓の良人だ、違うか?」
茫然としている楓の顎先を掬い、時繁は軽く唇を触れ合わせ啄んだ。
「そなたが河越の者に戻るというのであれば、俺もついてゆく」
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ