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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 時繁は元々、着る物に気を遣う質ではないようで、持っているのは粗末な小袖と袴が数組だけ、それをすべて繕うのに時間はかからなかった。まだ繕うものがないかと楓は部屋の片隅の柳行李に近づいた。
 既に繕い終えた着物は今朝、時繁が漁に出る前に自分で出していったものばかりだ。まだ行李の中に何か残っていないかと蓋を開き、覗き込む。と、衣類ではなく、使ってはいない薄い夜具が二枚重ねて入れてあった。
 夜具をのけると、その下からは立派な黒塗りの箱が突如として現れ、楓は眼を瞠った。
「これは何―?」
 思わず声に出して言ってしまい、慌てて周囲を見回す。誰がいるはずもなかった。
 黒塗りの箱はかなりの大きで、縦長だった。表には蒔絵細工で咲き誇る牡丹とつがいの蝶が描かれていた。いずれ有名な職人の手になるものに違いないことは判った。
 興味を惹かれて蓋を開ければ、中からは更に古びて色褪せた布に幾重にもくるまれた品が現れる。武家の娘として生まれ育った楓には、そも何なのか、おおよその見当はついた。
 恐る恐る手を伸ばしたのと、小屋の扉が勢いよく開いたのはほぼ時を同じくしていた。
「何をしているんだ!」
 血相を変えた彼が駆け寄り、楓の眼前で蓋の開いたままの行李や蒔絵の箱と楓を鋭い眼で交互に見やった。
「何故、勝手に開けた」
 時繁は楓の両肩を掴み、揺さぶった。
「よもや中身を見たのではないだろうな」
 あたかも楓が大罪を犯した罪人のように剣呑なまなざしで見つめてくる。その酷薄とさえいえるほどの表情はどこまでも冷め切っていて、楓がよく知る良人とはまったくの別人だ。
「私は―中身は見ておりません。そんなに大切な品だとは知らず」
 楓は別の男のようにしか見えない時繁が怖くて、怯えた。小刻みに身体を震わせて涙ぐむ妻をしばし時繁は惚けたように見つめた。
 短い静寂が流れた後、時繁がポツリと呟いた。
「悪かった」 
 時繁は低い声で言い、楓を引き寄せた。
「済まん、大きな声を出したりして、怖かったろう。別に楓を怒ったわけじゃない。ただ、もう今後は、あの行李は開けないでくれ」
「何か大切なものなのですね? 私には刀のようにお見受けしましたけれど」
 つい訊かずにはいられなかった。普段は穏やかな海のような男を瞬時にあれほど惑乱させるものとは何なのだろうか、知りたいという欲求には勝てなかった。
 言った後で、また機嫌を悪くするかと思いきや、彼は小首を傾げて意外にも教えてくれた。
「流石は河越恒正どのの娘、武家の姫だけはある。やはり、バレてしまったか」
 それから彼は一瞬だけ遠い眼になった。
「これは祖先から受け継いだ大切な刀だ」
「家宝のようなものですか?」
 恐る恐る問えば、これにも時繁は笑顔で頷いた。
「まあ、そのようなものだ。それゆえ、今後は何があっても、あの行李を開けてはならない、約束してくれるか?」
 楓は時繁の深い瞳を真っすぐに見つめた。
「判りました。お約束致します。旦那さま、私は良人が見るなと言ったものを無理に見ようとは思いませぬ、どうか楓を信じて下さいませ」
 時繁が破顔し、楓の髪をくしゃっと撫でた。もう、いつもの優しい彼に戻っている。楓は心の底から安堵して、時繁の広い胸に身体を預けた。

 その日、楓は町に一人で出かけた。もちろん、時繁には内緒である。心配性の彼に一人で出かけるなどと言えば、反対されるのは判っている。
 楓が時繁と暮らすようになってはや、ふた月を数えていた。海辺の家で初めて結ばれたのはまだ桜が咲く時分だったのに、今はもう水無月に入っている。
 ひと月前、時繁に連れられてきた時、櫛屋の斜向かいに古着屋があったのを記憶している。あの店では布も多少は商っていたようだから、あそこで時繁の狩衣を仕立てる布を求めてはどうかと思案したのである。
 古着屋の主人は五十前後の痩せた男だった。丁度、昼時なのか、竹包みを開いて大きな握り飯を頬張っているところだ。
「おじさん、こんにちは」
 愛想よく声をかけると、座っていた主人は細い眼をちらりと動かして楓を見上げた。その前には十数着はある古着がかかった棒が立てられている。傍らの台に無造作に単布が積まれていた。
「お昼時にごめんなさい。少し良いかしら」
 主人は肩を竦めた。
「客に来てくれる時間を指図できるほど、うちは儲かっちゃいないからな」
 ニッと笑った口の中、前歯が欠けていた。
「今日は古着ではなくて、布を見せて頂きたいんだけど」
「判った、あるのはこれだけだが、良かったら、見ていってくれ」
 見かけは無愛想で取っつきにくいが、話してみると人の好さそうな男である。丁度、河越の父と同じ年頃なので、楓はつい父のことを思い出してしまった。
 そのときだった。斜向かいから、腰の曲がった老婆がこちらに近づいてきた。
「徳八さん、気張って商いしとるかね」
 楓も見憶えのある老婆だ。あの大根を買った野菜売りである。
 二人は親しい様子で、近況を賑やかに喋っている。その中、楓の耳に飛び込んできた科白に、愕然とした。
「そういえば、頼朝さまの第一のご家来衆といわれる河越さまが病に倒れなさったというがね」
 思わず老婆に取り縋り、詳しい話を聞きたいと思ったが、ここで不必要に自分の存在を印象づけない方が良い。楓は布を選ぶふりをしながら、細心の注意を払って二人の会話に集中した。
 どうやら老婆は時折、河越家に立ち寄り、台盤所の賄い方が彼女から野菜を買い上げているらしい。それで多少は河越家の内情に通じているのだ。幸いなことに、主君の娘である楓は厨房に近づくことは殆どなかった。
 だからこそ、老婆が楓の顔を知らないのだ。
「それは大変ではないか。河越さまといえば、北条さまと並んで頼朝さまの懐刀と呼ばれているだろうが」
 主人が言うのに、老婆はしたり顔で頷いた。
「頼朝さまに取り入ろうとする輩は多いが、河越さまがおいでじゃから、なかなか悪い虫は寄りつけんと専らの噂だからのう。何せ、河越さまは謹厳実直を絵に描いたようなお方、己が栄達しか頭にない連中とは違い、頼朝さまのおんために動かれる。頼朝さまもそのことをよおくご存じなのじゃろうて」
 市井の老婆には不似合いな鋭い見解を披露し、老婆は声を落とした。
「何でも河越さまの姫さまがふた月ほど前にゆく方知れずになったとか。お屋敷では病気で伊豆にお行きだとごまかしとるらしいが、賄い方のお喋り女がわしにそっと教えてくれた極秘情報じゃ」
 古着屋は細い眼を見開いた。
「おお、そういえば、あの北条の馬鹿殿に河越の姫さまが嫁ぐという話があったがや」
 老婆は面白い芝居を見たかのように愉快そうに笑った。
「マ、あの女狂いの若さまにもちっとばかり良い薬になれば良いがの」
「ならば、姫さまは馬鹿殿がいやで、逃げ出したと?」
 老婆は鼻を鳴らした。
「あのような女の尻を追いかけ回すしか能のない阿呆男は、わしでもご免じゃ」
 と、古着屋が吹き出した。
「しかし、言わせて貰えば、あの若さまも婆さんには流石に手は出すまいて」
 老婆は真顔で首を振る。
「いやいや、あの阿呆は女であれば、皺だらけの婆ァであろうが襁褓の取れぬ赤児であれば、何でもござれよ」
「そいつは厄介だ」