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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 そのひと月後、将軍頼嗣は執権経時の末妹檜皮姫を正室として迎え、檜皮姫は御台所となった。そのことにより、北条は再び将軍家外戚としての立場を取り戻すことになる。


 海辺にて(二)

 今日もここ由比ヶ浜は潮騒が聞こえている。この音が止むことはない。
 白砂がなだらかに続いてゆく浜辺にポツンと一件の小屋が建っていた。煙が上がっているところを見ると、どうやら人が住んでいるらしい。
 ほどなく扉が勢いよく開き、子どもが飛び出てきた。その後ろから女が付いて出てくる。女はまだ二十歳前後、子どもが五歳くらいなので、姉なのか母親なのか判別は難しい。
「母上〜、今日は町に行く日ですね」
 子どもは男の子だ。利発な子のようで、くりくりとした黒い瞳で母親を見上げる。まだ若い母親はしゃがみ込み、息子と同じ目線の高さになった。
「そうですね、お昼ご飯を早めに済ませたら、町に行きますよ」
「はいっ、判りました」
 子どもはこっくりとし、歓声を上げながら浜辺を走り回り始めた。
 女―千草は微笑んで息子を見つめ、更に視線を海へ、それから空へと転じた。深い海と空。鎌倉の千草の大好きな景色はいつも変わりなくここにある。ここにいれば、千草は空や海に見守られているような気がした。
 生涯に一度きりの祝言を挙げたのは丁度、今から五年前のこの季節だった。愛する男とこれからはずっと一緒にいられると歓びに浸ったのも束の間、その夢は無残にも潰えた。
 祝言を挙げたものの、千草は北条経時の妹と頼嗣の婚礼が終わるまで、御所に上がるのは控えた。そして、ひと月後に頼嗣と檜皮姫の祝言もまた行われたのだが、執権からの命で、将軍夫妻の新婚覚めやらぬ中は御所入りは叶わぬと河越館にとどめ置かれたままになった。
 そうこうしている中に、頼嗣の妻にして御台所となった檜皮姫が俄な病に伏し、執権経時までもがあい続いて病気になった。加持祈祷の甲斐もなく、檜皮姫は亡くなった。頼嗣より九歳年上の二十三歳だった。更に妹の後を追うように経時も病死したのである。
 北条得宗家は不幸続きで、縁戚である将軍家も喪に服すこととなり、側室が御所入りすることも叶わなくなった。新しい得宗家の当主時頼はなかなか辣腕家で、策略家とはいえどもまだ表面は大人しかった経時に比べれば、かなり強引な男だった。
 この時頼が執権となったことで、頼経・頼嗣父子の運命は激変することになった。その年の末、前将軍頼経が俗に?宮騒動?と呼ばれる事件に連座したとして、京都に追放された。更に翌年の夏、将軍頼嗣までもが幕府に叛意ありとし、時頼の意向によって京都に強制送還された。
 前将軍頼経はわずか一歳で鎌倉に下り、幼くして将軍に立てられた。最初はもちろん執権北条氏や尼御台政子の後見があったものの、長ずるにつれ賢君としての器を示し、頼経に心を寄せる者たちが彼の許に次第に集まってくるようになった。
 飾り物だとはいえ、幕府の頂点に立つ?鎌倉どの?である。その頼経の勢力と人望の拡大を怖れた北条得宗家がまだ若い頼経を解任し、幼い息子頼嗣を五代将軍に擁立したのだ。
 だが、得宗家は頼経を隠居させるだけでは飽き足らなかった。?大御所?と称して幕府内になお大きな影響力を持つ頼経を警戒し、謀反をでっち上げ、ついには京都に追放することで後顧の憂いをなくしたのだ。
 当初、執権時頼は頼嗣はそのまま鎌倉に留め置くつもりであったが、御台所である檜皮姫も亡くなり、頼嗣と北条の縁も切れた。幕府内には常に北条得宗家に敵対する勢力、つまり反執権派があり、北条打倒の機会を窺っていた。得宗家が何より怖れたのは、その反対派と将軍が結びつくことだったのである。
 先に追放した頼経は一環して、それらの反対派には近づかず、将軍として中立的な立場を貫いた。思慮深く、いかなることにも隙を見せない人間としての深さがあった。
 だが、頼嗣自身は父頼経とは異なるどころか、かえって頼経よりは覇気に富み、自ら反得宗家派に近づいていることは早くから報告されていた。
 そのため、頼経に続き、頼嗣をも解任し、京都へ生母大宮どのと共に送り返すこととなったのである。
 これで得宗家は独走状態となった。同年の中には幕府は朝廷に願い出て、後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を六代将軍として招来することに成功、ここに幕府念願の?宮将軍?が誕生した。これに比して四代、五代の摂関家出身の将軍は?摂家将軍?といわれる。
 宗尊親王を新しい将軍に頂き、幕府は再び安寧を取り戻したかに見えたその矢先、再び騒動が起こった。幕府内でも筆頭御家人として目されていた河越康英が失脚、あろうことか迎えたばかりの将軍宗尊親王を誅殺し奉る呪詛を行っていたと密告があった。
 所詮は根も葉もない噂にすぎなかったが、康英は前将軍頼嗣の守り役であり、その妻は乳母を務めていた。また、河越氏そのものが初代頼朝から連綿と続く名門であり功臣であった。得宗家がこの際、眼の上の瘤を取り除こうと乗り出したのは明白だった。
 頼嗣が都に追放された同じ年、河越康英は宗尊親王呪詛、前将軍頼嗣復位を企んだとして捕らえられ、斬刑に処せられた。同時に康英の息子以下、一門もことごとく捕らえられ、斬首され、河越一族は根絶やしにされた。
 得宗家により、その屋敷は火をかけられ跡形もなく燃え尽きた。謀反人とされた康英の子らは正室、側室の生んだ別なく処罰されたものの、既に仏門に入った者、また女子はこれを逃れた。しかし、正室菊乃の所生である次女千草は母菊乃とともに自刃、紅蓮の焔に包まれ河越氏の栄枯盛衰を見届けてきた館とともに、この世から消え果てた―ことになっている。
―私も母上と共に参りまする。
 最後まで言い張ってきかなかった娘に、菊乃は凜とした声音で断じた。
―そなたは嗣太郎君(つぐたろうぎみ)を連れ、ここを逃れなさい。
―でも。
 涙の滲んだ瞳で母を見つめると、菊乃の美麗な面に花のような微笑がひろがった。自然に手を合わせたくなるような慈母観音のごとき笑みが今もくっきりと瞼に灼きついている。
―そなたと嗣太郎君が生きている限り、河越氏も九条将軍家も絶えることはない。どうか生き存えて、次の世に我らのことを語り伝えて欲しい。
 鎌倉で生き抜いた女たちの流した涙を、私たちの紡いだ人生という名のささやかな物語を。
 その瞬間、千草は母の心を正しく理解した。
―嗣太郎君を立派な男子(おのこ)に育てるのじゃ。
 それが、母の遺言となった。
 千草が館を出てほどなく、北条の放った火矢から屋敷中に火が燃え移り、さしもの隆盛を誇った名門河越氏の屋敷は焔に包まれた。
―母上っ。
 千草はまだ生後七ヶ月の嗣太郎を腕にひしと抱き、涙ながらに燃えてゆく実家を見つめた。女は生命は取らぬという北条の情けには縋らず、最後まで良人に殉じた母の最期はいかにも母らしい鮮烈なものだった。 
「母上」
 無邪気な声にふと我に返った。千草は長い回想から我が身を解き放った。
 長い長い旅をしてきたような気がする。
 側室として千草の御所入りが止められたのは幸いであった。そのため、千草は腹の子ごと生命を存えることができたのだから。