華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
千草は囲炉裏を見つめる。燃え盛る焔にひたむきな視線を注ぎ、揺るぎない口調で言った。
「もし頼嗣さまがどうでも私をお望みであるというなら、まずは北条得宗家の姫さまをご正室としてお迎えになって下さいませ。私は、その後すぐに頼嗣さまのお側に参ります」
頼嗣の瞳が大きく見開かれた。
「しかし、千草、それは」
千草は皆まで頼嗣に言わせなかった。
「ご心配は無用にございます。私は側室として御所に上がりますゆえ」
頼嗣の眼に涙が滲んだ。
「何ゆえだ、どうして、そなたを妾になどせねばならぬ。私が欲しいのも抱きたいのも、生涯を共にしたいのも千草、そなただけぞ。それほとまでに愛しいと思う女を側女にせよと、そなた自身の口から私に言うのか」
千草もまた溢れる涙を堪えた。頼嗣は判っていない。誰が好んで側室になりたいと望むだろう? 女は誰でも好きな男には自分だけを見つめていて欲しい。
男は高貴な身分になればなるほど、たくさんの妻妾を侍らせる。だが、大勢の女たちが影でどれだけひっそりと涙を流していることか。?かげろふ日記?の昔から、妻は多情な良人に泣かされ翻弄されてきた。
ましてや、頼嗣は彼自身が千草しか要らぬと宣言してくれている。そんな状況で、千草自身の口から側室の立場に甘んじると申し出ることにどれだけの壮絶な覚悟を必要とするかを。
それが、鎌倉の女の強さであった。楓、千種(竹御所鞠子)、大宮どの瑶子、千草。この武士(もののふ)たちの集う東国の都鎌倉で培われてきた女たちの心底を絶えることない川のように流れる心意気でもあったのだ。
「どのような形でも良いのです。側室でも頼嗣さまの妻に変わりはありません。私は誰に邪魔されることなく、あなたさまのお側にいたい、ただそれだけが願いなのです」
決然とした瞳で見上げれば、頼嗣は涙の浮かんだ瞳で千種を強く抱きしめた。
二人が小屋を出た時、既に雪は止んでいた。折り重なった雲間から時折、薄陽が差している。今は鉛色に色を変えた海のはるか上に海面を照らす陽光が紗(うすぎぬ)の帳のように見えた。
雲が風に流される。風は再び太陽を呼ぶ。力強さを増した太陽の光に沈んだ海が鮮やかな色を取り戻し、きらめき始めた。
頼嗣は春の陽差しに眩しげに眼を細め、隣り合った千草と眼が合うと照れくさそうに頬を染めた。もちろん、千草自身の白い頬にも朱が散っている。
うつむく千草を見つめる頼嗣の瞳はもう少年ではなく、守るべき愛する女を手に入れた男のまなざしの深さを湛えていた。
その半月後、鎌倉中の桜が満開になった。さながら東国武者の都は全体が薄桃色の霞に包まれているかのようだ。その春たけなわの吉日、第五代将軍藤原頼嗣と御家人河越康英の次女千草の婚礼が行われた。
ただし、この婚礼はあくまでも内々のもので、公式に認められたものではない。それでも、頼嗣は祝言だけはゆずらなかった。
頼嗣と千草が浜辺の小屋で結ばれてから、大御所頼経は執権北条経時と再び密談を交わした。その場で執権はついに妹檜皮姫を正室として嫁がせることを条件に千草を側室として認める案を受け容れたのだった。
だが、花婿となる頼嗣が最後まで拘ったのが側室となる千種との婚儀であった。
「おなごにとりて嫁ぐのは一生に一度、なれば、千種のために祝言を挙げてやりとう存じます」
懇願する息子に、最初は祝言を認めなかった頼経も最後は折れた。あくまでも執権に知られぬよう内輪の者だけでささやかに行うということで、二人の祝言を許した。
今日はその婚礼が行われる日であった。
外聞をはばかるため、婚礼は御所ではなく、河越館で行われた。大広間に引き回した金屏風を背に居並ぶ花嫁花婿、花婿はきらびやかな狩衣(かりぎぬ)、花嫁は純白の小袖だ。時折、凛々しい花婿が新妻を気遣い言葉をかけ、新妻が頬を初々しく頬を染めるのも微笑ましい。
その可憐な花嫁の瞳に涙が滲んでいたのを知る者は花婿だけだった―。
めでたい祝言に連なったのは新婦の両親である河越康英・菊乃夫妻、更に二人の息子たちである。流石に外聞をはばかる話なので、大御所頼経と大宮どの前将軍夫妻は参列しなかった。
河越館で祝言が行われている同じ時刻、頼経は隠居所の居室から庭の桜を眺めていた。その傍らには妻、大宮どのの姿もある。
「今頃は婚礼も滞りなく進んでいることにございましょう」
「うむ」
頼経は桜に視線を向けたまま頷いた。
「大丈夫でしょうか?」
瑶子が良人をちらりと見た。
「何がだ」
「私たちの息子ですわよ。何しろ初めての祝言にございますもの。緊張のあまり、とんでもないヘマをしたりはしていないか心配なのです」
頼経が笑った。
「それほど気になるなら、そなただけでも行けば良かったものを」
瑶子は真顔で首を振った。
「そのようなわけには参りません。今回の祝言は執権どのはご存じないのですゆえ。古来、側室を迎える際に祝言を挙げた例はたくさんありますれど、今回に限っては公にはできますまい」
「そうだな、私たちにとっても初めての我が子の祝言だ。できることならば列席してやりたかったが」
頼経が瑶子を見た。瑶子が微笑む。
「それでは、せっかくのあの娘の志を無下にすることになります」
正室にと望む頼嗣の申し出を退けてまで、自ら側室として生きることを選んだ千草の志を。
「私、常々思うていたのですが、河越の女人は強うございますね。菊乃にせよ千草にせよ、己れが思い定めたひと筋の道を信じて邁進する―、私にはそのように見えまする。いえ、河越のというよりは、鎌倉の板東の女そのものが強いのでございましょうか。東国という大地に根を下ろし子孫を増やし逞しく生きてゆく。都生まれ育ちの私には眩しいほどの生き方にございます」
そこで頼経が言った。
「そのようなことはない。私からすれば、そなたも十分に強い。河越の―いや、東国の女にも負けはせぬぞ」
良人の笑みを含んだ声に、瑶子もまた微笑む。
「さようにございますね。あなたさまに嫁ぐために都から鎌倉に来てもう―」
思案顔の妻に、頼経がすかさず応えた。
「十四年だ」
「もう、そんなになるのですねえ」
頼経も感慨深げに呟いた。
「そう申す私自身、赤児のときに鎌倉に下り、はや三十三年を経た。人の一生とは赤児が見る束の間の夢のごときものだというが、真、儚いものだ」
「殿も私も遠い都からはるばるここ鎌倉まで来たのも何かの縁があったのでございましょうね。殿、私はこの鎌倉の地に根を張ることができたでしょうか」
妻の問いに、頼経は深く頷いた。
「少なくとも、私にはそのように見える。将軍として生きた私の人生をそなたが影から支えてくれた。いわば私の人生は、そなたあればこそだ。私は良き妻を迎えられたと思うている」
「今日は嬉しいことが重なりました。息子が良き嫁を貰い、殿からもこの上ないお褒めの言葉を頂きましたもの」
瑶子が顔をほろこばせて桜を見上げる。
どこかで鶯の声が啼いた。風もないのに、桜の花びらがはらはらと零れる。頼経はかつてないほど澄み渡った心もちで満開の桜を眺めていた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ