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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 何と頼嗣が六歳の砌、袴姿も勇ましい大宮どのは御所の庭の柿の樹に自ら登り?お手本?を示したそうだ。
―かような細き枝はいかにも脆くて危ない。このような枝は避け、しっかりとした太い幹を選び梯子か階段を上る要領で登るが良い。
―はいッ、母上。
 六歳の頼嗣は大真面目にそれを聞いた。それから何度も柿の樹に登って実を収穫した経験があるゆえ、高いところには慣れている。高ければ柿の樹も屋根も大差ないというのが頼嗣の持論らしかった。 
―千草、私はな、もっと幼きときは宮大工にになりたかったのだ。
 ある時、父頼嗣と共に鶴岡八幡宮に参拝した際、とある社殿が修理中だった。その際に見た修繕をしている職人―宮大工の姿が忘れられなくなったのだと眼を輝かせて話してくれた。
 それから父頼経に頼み、子どもにも扱えるような大工仕事に使う道具を用意して貰った。誰に学んだのでもなく一人で使い憶えた道具で器用に小物入れや果ては文机まで拵える息子を頼経は呆れて見ていたが、母大宮どのは褒めてくれたという。
―将軍とはいえ、何でも新しきことを知り学ぶは良きことじゃ。
 あるときは鳥の巣箱を作り、御所の庭の高い樹に自ら登ってそれを取り付けた。御所さまがおられぬと探した側近が頼嗣の姿を漸く見つけた時、九歳の将軍は高木に登り側近に向かって手を振っていた。
―誰ぞ、早うに薬師を呼ぶのじゃ!
 万が一にも将軍が落下したときに備えてと声を張り上げたその側近に頼嗣は満面の笑顔で手を振っている。その時、頼嗣がふと均衡を崩し、その小さな身体が傾いだ。それだけで、老いた側近は衝撃を受けたあまり、失神した。
 結局、呼ばれた薬師の手当を必要としたのは将軍ではなく倒れた側近の方だったという笑えない話もある。むろん、当の頼嗣は猿のように器用にするすると樹を降りてきた。
 その後、頼嗣は父から叱られた。
―馬鹿者、将軍たる者が猿のように樹登りするとは何事か。
 しかし、大宮どのは頼嗣にこう言った。
―そなたに樹登りを教えたのは母ゆえ、叱ることは致しませんが、今後、仕えてくれる側近を無闇に心配させぬよう気遣いは怠ってはなりませぬぞ。
 大宮どのがかなり変わった女性であることは確かなようであったが、そのお陰で頼嗣は将軍家の若君にしては型ににはまらぬ闊達な気性の少年に育った。
 とにもかくにも頼嗣がこまめに修繕してくれたお陰で、二人の?隠れ家?は粗末ながらも何とか小屋らしい体裁は保ち続けていられる。
 頼嗣が立ち上がり、小窓から外を覗いた。
「これでは帰ろうに帰られぬな」
 誘われるように、千草も後ろから覗くと、雪は止むどころか、ますます烈しくなっているようだ。
 鉛色の分厚い雲が折り重なった雲間から絶え間なく舞い降りてくる雪は、やはり春に咲く桜の花びらに似ている。その雪の花びらが海に音もなく吸い込まれてゆく光景はこの世のものとも思えぬほどに幻想的で夢のようだ。
「きれい」
 呟いた千草に頼嗣も頷いた。
「春に降る雪か、なかなか見られない美しき光景だな」
 頼嗣は先に囲炉裏の側に戻った。
 いつまでも窓辺から動かない千草に、頼嗣が苦笑いを刻む。
「そこは寒い。こちらへ」
 もう少し眺めていたい気持ちもあったけれど、素直に火の側に戻った。
 頼嗣がいつも常備してある薪を取ってきて、焔に投げ込んでいる。パチパチと火の粉が舞い上がり、黄金色の焔が舞い踊った。冷たい雪も美しいが、燃え盛る熱い焔も比べようもなく美しい。
 その瞬間、千草はハッとした。
 どちらにも、その存在価値はある。その一方を選び取れと迫られても、選び取れない場合もある。そのようなときはどうするか?
 ふいに幼き頃、母菊乃に言い聞かされた科白が響いた。
―簡単なことです。どちらをも立つようにすれば良い。二つの相反するものが競い合うのではなく、互いの良きところを認め合い、両方の面目が立つようにすれば良いのです。
 あれは上の兄たち二人が他愛ない喧嘩をしたときのこと。長男の正英が十四歳、次男の康経が十二歳くらいの話だ。一部始終を見ていた千草はどちらの言い分もそれなりに筋が通っていて正しい。どちらが悪いかは判らないと思って母に訊ねたら、菊乃はそのように応えてくれた。
 その顛末は、母が間に入り、どちらも咎めなし、互いに謝罪するということで収まった。
 焔と雪、互いにその美しさの質はまったく違う。どちらが良いかは決められない。その時、千草の焔を映した漆黒の瞳に強い決意の光が閃いた。
 千草が燃え盛る焔を眺めていると、頼嗣が呟いた。
「何を考えている?」
「いえ」
 千草は微笑み、頼嗣を見つめ返す。
「頼嗣さまこそ、何をお考えになっているのですか?」
「私か? 私は」
 頼嗣はここでまた傍らの薪束から薪を取り、囲炉裏に投げ込んだ。三月半ば過ぎとはいえ、まだ肌寒い。殊に雪が降れば尚更である。小屋内でさえ火をたいていても、吐息が細く白く溶けてゆく。
 薪を投げ込む度に焔がひときわ大きく燃え上がる。頼嗣はそれを凝視しつつ、淡々と応えた。
「菫の花のことを考えていた」
「菫―」
 千草が思わずその言葉をなぞる。
「春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」
 囁きにも似た声で突如として告げられた歌に、千草は眼を瞠った。
「それは?万葉集?ですね」
  
―春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける (山部赤人)
「菫の花を別名?一夜草(ひとよぐさ)?というそうだ。知っていたか?」
「いいえ」
 正直に応えると、頼嗣は眼を心もち眇めるようにして千草を見つめた。そこで、?あ?と声を上げる。
「菫を一夜草というのは、頼嗣さまが先刻、教えて下された和歌と拘わりがあるのですね?」
 頼嗣が我が意を得たりと頷く。
「流石は千草だ。察しが良い」
 そこで、千草は浮かんだ純粋な想いを口に乗せた。
「野原に菫を摘みに来たけれど、あまりにも可愛らしくて美しい花なので、立ち去るのが惜しい、その菫の側で一夜を空かしてしまった。このような意味なのでしょうか」
 頼嗣も微笑んだ。
「歌の意味というか言葉どおりを解釈すれば、そうなるだろうが、私はもっと別の深い意味があるような気がする。例えば、この歌を作った山部赤人が野原で菫を摘んでいる美しき少女(おとめ)を見かけた。和歌の中に詠み込んだ菫の花には、単なる花と美しい娘と二通りの意味があるように思えてならない」
 千草は唸った。
「なるほど、確かに仰せのとおりかもしれませんね。花に恋をしたというよりは、花を摘んでいた娘に恋をしたと」
「昔の人は情熱的だったのですね」
「万葉の歌人は特に情熱的な恋に生きた人たちが多いからな。もっとも今よりはるか昔のことだ、恋に奔放だったというよりは、恋愛くらいしかすることがなかったのではないか」
 その物言いがおかしくて、千草はつい笑った。
 頼嗣が少し得意げに言う。その表情はまるで母親か姉に褒めて貰いたい子どものようだ。しかし、今度は込み上げた笑いを抑え込んだ。
「菫の別名はまだ他にもあるのだぞ」
「まあ、まだあるのですか」
「うん、二夜草(ふたよぐさ)という別の呼び方もあるんだ」