私の読む 「宇津保物語」 楼上 下
楼のうへ 下
朝の食事を寝殿で取って、暫くしてから楼へ犬宮と母君内侍督を案内する。内侍督も犬宮も女房が十二人で几帳を捧げて二人を守って渡る。楼には銀製の果物入れに果物を入れて持参する。
最初に内侍督が楼へ登る。階段は仲忠が母君の手を取って支えてあげる。内侍督は唐綾の衣一襲、紫苑色の夏の織物の袿、紅の三重襲の袴。仲忠は白の衣に紅の直衣、袖を抜いて垂らしている。几帳と几帳の間から斜交いに見える内侍督の七尺近い髪は、絹に艶を出すために糊を付けて乾いた後に打ったり擦ったりしたもの「瑩(えい)」、磨かれたように大変光って見える。
中納言という女房を
「暫くここに居て」
と、東の楼に犬宮を抱いて、
「几帳を高く、みんなそうしなさい」
中納言にならってみんなは几帳を高く持ち上げて並ぶ。その中入って長い廊下を歩く。抱かれている犬宮の装束は、縹色の小さな裳、綾の袿一襲、。白に薄黒の尾花の枯れた色の細長、袴は長めである。楼に昇って、琴を取って渡すと、
「雛に聞かせてやるのだが、雛は何処に」
と言うので仲忠は笑って、
「ここにありますよ」
と犬宮の前に据えた。
内侍督は見ていて、前よりもずっと美しく高貴にきらきら輝く様な姿になったと愛しく見え、子供っぽくなく落ち着いておっとりしている。
先ず、「りうかく風」を犬宮の物とし、仲忠は祖父が弾いていた「細緒風」を自分の琴とした。
内侍督が二つの琴の調子を合わせる。仲忠は調子を整えたりゅうかく風を犬宮に渡し、弾き始める。犬宮の手は大変小さいが、弾く音はしっかりとしている、少しも不安なところがない。大層はっきりと曲を会得していてきちんと弾く。
次に違った曲を一曲教えると、犬宮は少しの間に曲を覚えてしまった。つぎに、一曲教えると、これも直ぐに覚えてしまう。内侍督は、
「我が家の因縁でこのように勝れた娘なのだ、恐ろしくなるほどである」
と教えながら涙がこぼれてきた。内侍督は、
「昔、私は四歳の折り、父は私に琴を教えになったが、一生懸命であった、それでもともすると乳母の膝に抱かれて覚えたものである。音を正しく弾けたのは七歳の時からで、大人のような音を出すようになったと父は仰った。
だが犬宮は、大人でもこれだけの音は出せないものを」
仲忠は犬宮が覚えが良く優れているので本望を達したようなものであった。本当に嬉しかった。
「まだ弾くことが出来るでしょうが、疲れるだろうから、今日はここまでにしましょう」
犬宮は三度まで聞かないうちに覚えてしまう。長年習って上手に弾けるようになった人が、今、他人が、弾いた音を聴いて覚えて、直ぐさま自分の物として弾いてしまうようなものである。
犬宮は今までにも母宮が琴を弾いているのを聞いていた。その曲が弾きたくてたまらない思いであったから、今自分が習っていても嫌とは感じない。身体に覚え込むことは限りないほどであった。
次の日、一宮から侍従女房に、
「大変に気懸かりで、夜の間はどのようにしているか心配しています。琴の練習は始まりましたか。私が聞けないとは妙なことですが、夜も琴を弾いているであろう。恋しい。様子を知らせてください」
と、文が届いた。届いたとき仲忠は楼にいた。
「急用な時は釣殿で手を叩け」
と、言いつけてあったので、気の利く若い中納言女房は、「みやぎ」という童に文を持たせて釣殿に行こうとして女房達に、
「さてさて私達は覚え目出度い、信用が絶大です。人とは全く違ったお扱いですよ。このぐらいな事で手を叩いてお呼びするのですかね」
と言て笑う。
釣殿の南の端に行く。 帽額(もこう)、御帳の上方、上長押(なげし)または御簾の上部の外側に、横に幕のように張った布帛、の御簾の中で長押の下に居て、童に高覧に行かせて手を叩かせる。仲忠が降りてきて文を見る。
「ここに硯があるか」
「御座います」
侍従が硯を渡すと、仲忠は返事を書く。
「有り難く読ませていただきました。
貴女のご様子では、大層恐れておいでのようでしたから、何も申し上げず、気に懸かっても申し上げる方法が無く、心配をしておりました。
犬宮の安否をお尋ね下さったことは、私のことをお尋ね下さるよりずっと嬉しいことです。
このお文で不安な気持ちが慰みましたのを思うに付けて、本当に貴女をお気の毒だと気にしております。なおも、秋の夜長を一人で考え込んで明かすのは罪を重ねるようだ、と仰せられたことは、貴女を恋しく思う自分の身につまされます」
というように書いた。
仲忠は、女房達が居るところまで来て、覗かれて、
「大弐の君、みんなに果物を差し上げてくれ。碁、双六、いつものように打とうではないか。只今の所、犬宮は、母宮が心配しておいでだったが、満足に弾いておられるようである」
と、心地よう仲忠は女房達を相手にしている。
侍従の乳母は、嵯峨院の御子で兵部卿になっていた方の娘である。この侍従が童であったとき、仲忠の北方一宮の遊び相手であった。一宮と同腹の男宮が、侍従の容姿が綺麗であるので、忍びで通われたところ・・・・・・・侍従は犬宮に乳を少しの期間上げていたが、乳母らしくないと言って乳母だけの名を残していたが正式な乳母にはしないで一宮が大層可愛がっている女房であった。
侍従宛の文であったから、侍従が返事を書く。
「お伝え申し上げましたら、琴は熱心に習っておられます。仲忠も気分良く教えておられます。お稽古は呆れるほど遙かな雲の上でなさっておられますので、私どもは聴くことが出来ません。帥の君が申し上げるでしょう」
一宮はこの文を読んで大層嬉しく思う。
「不思議に胸がどきどきする」
と、言って文から眼をはなした。
いつもの夕食は楼で取る。仲忠は娘の犬宮に
「淋しくて辛くはないか、そうであればここに侍従だけを呼んであげようか」
「雛遊びをするならともかく、やっぱり母宮が琴をお弾きになるように、私も月が昇るまで弾きましょう」
と、犬宮が応えるのが仲忠は嬉しかった。
食事を正装をした四人の下仕えが持って出る。四人は裳唐衣を着ている。さらに上位の女房が二人が楼に登って食事の世話をする。三尺の几帳に身体を隠して登楼してきた。給仕はいつものように仲忠がするので、
「何と見苦しいことをなさいます。中納言の侍従を呼びなさい」
「何の、気を遣われることはありません」
と、仲忠は給仕を続ける。中納言女房は食後のうがいが終わると用具を持って降りていった。
犬宮にも、同じような麗しい裳唐衣を着ている乳母が二人側にいて世話をしている。仲忠が取り次いで差し上げる。犬宮へは果物ばかり差し上げて、他の物はない。次に、仲忠が居るところに、姿が良く髪が長くてひとまとめに括った男童四人が南の山際に造った反り橋の方から来る。少し下がった高欄に仲忠は出てくる。画に描いたように美しい光景である。
こうして多くの曲を習うことが犬宮は出来るが、仲忠は、わざと一日に二三曲を教えて過ごしている。
庭の山、前栽が見頃になってくる。犬宮は南の山の方を見て、
作品名:私の読む 「宇津保物語」 楼上 下 作家名:陽高慈雨