kyoko
入れたての珈琲を両手に持ちながら、杏子さんがキッチンから声を掛ける。
「うん。ベッドカバーとか細かいのは後で揃えるとして、明日からの出勤には問題ないよ」
正月休みも明け、明日から僕は会社が始まる。
「あ、そうだ。三人で住むに当たって、ルールとか色々考えたんだ。理絵とも話し合ったんだけど……私たちは夜の仕事だから、俊介さんと生活サイクルがあまり合わないと思うの。会社が終わって疲れて寝ている俊介さんに迷惑をかけるのは私たちだから、食事はともかく、ゴミ出しとか掃除とかは昼間ここにいる私たちにまかせて」
申し訳なさそうな顔で杏子さんが頭を下げる。
「いやいや、杏子さんたちだって仕事で疲れてるだろ? 僕、結構片付けとか掃除が好きだから、帰って来たら出来る限りやっておくよ。まあ、あいつはいつも人がここに居るから寂しくなくて良いんじゃない? なあ、ミケ」
(いい気持ちで寝てるんだから、気安く名前を呼ぶんじゃないわよ)的な目でミケがソファから半目でこちらを見ている。
「ありがとう。うふふ、何て顔しているのよあの子。そうね、あの子は寂しくなくていいわね」
まったりした時間が流れる。やがて珈琲を飲み干した僕らは、理絵さんを起こしつつ寝る準備を始めた。
「おまえ今夜は誰んトコで寝るんだ?」
部屋はリビングを取り囲むような間取りだった。僕の問いかけにミケは「にゃあん」と掠れた声を上げながら伸びをひとつする。そして僕の部屋の前まで行くと、ドアを開けてくれというようにそこに座る。
「あはは、やっぱり俊介さんがお気に入りみたいね。おやすみなさい」
理絵ちゃんの言葉に、歯ブラシを加えたままの杏子さんの眼も優しく笑っていた。
次の日は、会社帰りに出勤前の杏子さんと一緒に生活必需品を買いに行こうという話になっていた。
「ごめえん! 出がけにミケがストッキングに飛びついて、二つもダメにしちゃって」
待ち合わせの喫茶店でパソコンを開いている僕の前の席に、息を切らせた杏子さんが微かに甘い香水の香りと共に滑り込んできた。コートを脱いだ彼女の身体には、ぴったりとした黒いドレスがとても似合っていた。その美しさは、周りの人がはっとしてこちらを振り返るほどだ。この時の僕は、彼女とはただシェアしているだけの間柄なのにずいぶん得意げな顔をしていたことだろう。そう言えば、涼太も相当この僕の立場を相当羨ましがっていた。涼太というのは、会社の同期でもあり僕の一番の親友でもあった。ミケを快く預かってくれていたのも彼だ。
「大丈夫、僕も今さっき来たところだから」
パソコン用の度が入っていないメガネを外しながら答える。
「俊介さんってメガネが似合うわね。イケメン執事みたいわよ」
外したメガネを自分で掛けながらにこっと微笑む。
「そうそう、今日誕生日なんだって?」
「ええ。何かお店で誕生日パーティーを用意しているみたい。今日は帰りが遅くなるかもしれないわ」
お店を上げての誕生会か。きっとこの娘は人気者なんだろうなあ。と思いつつ、僕はスーツのポケットから紙袋を出して彼女の前に差し出した。
「なあに、これ?」
少し驚いたような眼をしながら僕を見上げる。
「ささやかだけど、誕生日プレゼント。本当に安物だから期待しないでね。開けてみて」
細いしなやかな指先で中身を取り出す。
「おー、ネックレス。可愛いハートね。大事にするわ、ありがとう」
女性にプレゼントなんて今まで選んだことは無かったが、店員さんのアドバイスもあり何とか集合時間までに買ってきた甲斐があった。
「お客さんから高価なプレゼントを貰い慣れてる杏子さんにはアレだけど、まあ、気持ちですから」
お客さんからブランド物のバッグやら何やら、貰っているのを理絵さんから聞いて知っていた。ただ、彼女はあまりそういう物に興味はないそうだ。
「なに言っちゃってるかなあ。そんなの貰う人によるわよ。今日は早速これ付けてこっと。ありがとう俊介さん、本当に嬉しい」
まんざらでも無い顔で、元からしていた高級そうなネックレスを外しそれを首に掛けた。
(貰う人にもよる? なんか嬉しいな)これが素直な気持ちだった。
「あまり時間が無いんでしょ? よーし、じゃ買い物に行こうか」
「オッケー。ミケのエサも大量に買いだめしないとね」
量販店に行く道すがら、僕は杏子さんの事ばかりを考えていた。
『婚約者とは一体誰なのだろう』と。
あっという間に次の週になったが、この頃にはシェア生活のリズムも何とか安定してきていた。仕事から帰った僕はたまたま今日休みだった杏子さんと二人きりになり、僕の得意なレタス入り炒飯を振舞った。
「最近、仕事の方は順調?」
「うん。そうそう、聞いて。なんと、私がお店の指名ナンバーワンになっちゃったのよ。本当はあんまり目立ちたくないんだけどね。でね、理絵がナンバーツーなの。あの子はあのキャラでしょ? おじさんたちに超モテるのよ。天然っていうのかしら」
そう言うと、お茶を片手ににこっと笑う。薄化粧の杏子さんは、おなかの空いた子供のように本当に美味しそうに僕の炒飯をまた頬張り始めた。お店ではきっとこんな顔を見せないんだろうなって思うと何か嬉しさがこみ上げてくる。
「でもさ、そんなポジションだったら、同伴とかアフターとか忙しくなるんじゃないの?」
「お! 俊介さん、いつそんな言葉を覚えたの? さては……私たちに内緒でキャバクラ通いですか?」
いたずらっぽい眼をしながら拳を握り、マイクのように付き出す。
「ち、違う! ちょっとインターネットで調べたんだ。杏子さんたちはどんな仕事してるんだろうなって」
僕の動揺を見た彼女はふっと笑ってから、親指で自分の顔を指差す。
「あら、興味が出てきたのね。ってか、分からないことがあったらネットで調べるより私たちに聞いてよ」
「そりゃそうだ」
……この素敵な時間を僕は漫喫していた。もしこれがお店だったら、この子と話すのにいったいどれほどのお金がかかるのだろうかと考えながら。
だが、それを断ち切るように携帯の着信音が鳴り響く。ソファで寝ていたミケが、不機嫌な顔をしながらあくびをした。
「誰かしら、今日は休みなのに。あれ、店長からだわ」
ハンドバックから電話を取り出すと、少し不思議そうな顔をしながら電話に出た。
「はい、家にいますけど。え、私の事を? 誰かしら……。分かりました、気をつけます」
小首を傾げながら電話をテーブルに置くと、杏子さんはしばらく考え込んでいる。
「どうしたの? 大丈夫?」
真剣な顔で電話を見つめている彼女の様子が気になって聞いてみた。あまりプライベートな話にはこれまで首を突っ込まないようにしていたが、何か少し様子が変だ。
「何でもないわ。俊介さんは気にしないで」
目を伏せて食器を持ち上げ立ち上がろうとする。だが女性に不慣れな僕でも、こういう時の杏子さんは、時に『気にして欲しい、聞いて欲しい』という気持ちの裏返しの場合がある事をこの共同生活で学んでいた。
「いいから話してみて」
語尾が少し強かったかもしれない。だが、その言葉を聞いた瞬間、彼女は椅子を引きよせ座り直す。