kyoko
「なんだろ。ミケが来たのかな。ちょっと見てきますね」
箸を置いて立ち上がると、外に出た。そこで見たものは……。身体中の毛を逆立てて僕を睨んでいるミケの姿だった。
「どうしたミケ。え、何だこの匂いは」
下の階から何か木材が燃えているような匂いがする。それは僕の部屋着にまとわりつくようにゆっくりと上ってくると、鼻に別種類の刺激臭を与えた。理解した瞬間身体中の毛穴が開く。
「火事だぞおおおお!」
下の階の住人が大声で叫んでいる。最初これは夢かと思ったが、煙はどんどん大きくなり、アパートの廊下の天井に溜まって行く様子を見ると急に現実に戻された。その瞬間僕はドアを開けて叫んだ。
「下の階で火事だ! 早く逃げろ!」
言うが早いか、きょとんとしている二人の手を引っ張って立たせる。この場合必要かどうか分からなかったが、鍋の火を即座に消す。
「ちょっと、火事って? このアパートが?」
「そうだ、いいからここから出なきゃ!」
「待って、バッグを」
慌ててバッグを手に取り立ち上がる女性たちの背中を押して、再び廊下に出た。既に火の手は二階まで迫っている。下に降りる階段は炎に包まれとてもそこから降りられそうにない。ぱちぱちという音に混じって、消防車のサイレンが遠くからかすかに聞こえて来る。
「ここから飛び降りよう。僕が先に降りるから、ついて来て!」
廊下から一メートル程下には駐輪場の屋根があった。手すりは既に加熱され、触ると少し熱く感じる。僕は手すりをまたぐと、慎重に駐輪場の屋根に足を降ろした。ここはトタン製の屋根なので、変な所を踏むとたぶん穴が開いて落下してしまう危険がある。
「おおおおい! 他に、まだ人がいるのか?」
下にいる男が叫ぶ。アパートの駐車場には人だかりができ、遠巻きに僕たちの脱出劇を眺めていた。
「分かりません、とりあえず彼女たちを下まで降ろしますから手を貸して下さい!」
僕は先に理絵さん、そして杏子さんに手を貸して屋根に降ろした。そこからは自力で降りないと行けない。アパートを振り返ると、僕の部屋は既に紅蓮の炎に包まれていた。髪の毛が燃え上がるんじゃないかと思うほどの熱さを頬に感じる。
「オーライ! 今だ、飛び降りろ!」
いつの間にか集まって来た男たちが、地面で僕たち三人を受け止める。彼らの眼は恐怖に怯えているように見えたが、目の前の人間を助けるという勇気がその顔に表れていた。
ぎりぎりだった。ベキベキッという音とともに、アパートの三階まで火に包まれる。男たちに丁寧にお礼を言う暇も無く、そこに居た全員が駐車場の方に全力で逃げ出した。
駐車場に着くと、どこからか拍手が上がる。それはどんどん広がり、そこに居る全員が手を叩き出す。確か一度見た事がある大家のおばあちゃんだけは、手を合わせて泣き崩れていた。
「良かったなあ!」
周りの人に肩を叩かれる。僕は助けてくれた人に礼を言う為に辺りを見回したが、人が多くて誰だか分からなかった。
「大丈夫?」
「私は平気よ。でも、理絵が飛び降りた時に足にちょっとケガしたみたい」
「理絵ちゃん、大丈夫?」
ジーンズの破れた所から少し出血しているようだ。
「うん、ちょっと引っかかっただけよ。それより俊介さんは?」
「僕は何でもないよ。でも……全て燃えちゃったな」
今や巨大な炎に包まれた城のようになっているアパートを見つめながらつぶやいた。駆けつけた消防車が放水を始めているが、炎は収まりそうにない。すぐにテレビ局がやってきて、リポーターを立たせ中継を始める。そのうち一人がこちらに近づき、僕らにカメラを向ける。
「あのアパートの住人ですか? 火元はどこだと思われますか? 今放火がこの近辺で増えてるようですが、不審な人物を見ませんでしたか?」
その女性リポーターは矢継ぎ早に僕らに質問を浴びせてきた。その時、僕は目の端で杏子さんがとっさに顔を反らすのを見た。そうだ、もしこれがテレビに流れたら彼女にとって都合の悪い事態になりかねない。
「すいません、ケガをしている子もいるので通して下さい!」
まだ質問を続けているリポーターを押しのけて、杏子さんの手を引きながら僕はその場から逃げた。
理絵を救急隊に引き渡した後、駐車場の片隅で叫び声が上がる。ちょうど近くを通っていた僕ははっきりとその現場を見てしまった。
「ミケだ!」
一匹の三毛猫が一人の男の尻に飛びついて爪を立てている。暴れる男は背中を振って振り落とそうともがいているが、ミケはその爪を離そうとしない。そのうちその男のリュックから缶のようなものが地面に落ち、ガソリンのような刺激臭をあげる。
「このバカ猫が! またおまえか!」
僕を含め、このセリフを住人たちが聞いていた。
「なあにあの人。この辺じゃ見かけない顔ねえ。それにこの匂いってガソリン? 怪しいわ。ちょっと私お巡りさん呼んで来る」
一人のおばさんが僕の近くにいた女性とひそひそ話した後、こっそりとその場を立ち去った。確かに、もし初めてきた土地なら『またおまえか』というセリフは少し変だ。やがてその男は駆けつけた警察官に取り囲まれた。
あとで聞いた話だが、結局この男は最近この地域を騒がせている放火魔であることが判明し、緊急逮捕されたらしい。あの時ミケが男に飛び掛からなかったら、もしかしたらまだまだ被害が広がったのかもしれない。
「ミケ、おいで」
僕の声を聞きわけたか分からないが、さっと男から飛び降りたミケは僕たちの方に自慢げな顔をしながらやってきた。ひげがぴーんと立ち、歩き方も誇らしげだ。
「おまえ、まさか犯人を教えたのか? なーんて、んな訳ないか。猫だし」
「いや分からないわよ? ご飯のお礼だったりして」
杏子さんはここで初めて笑顔を見せる。
「何かあっという間に何もかも燃えちゃったね。これからどうするかな」
「そうね、警察の事情聴取があるでしょうから、その後は……。どうしようかしら」
「ミケ、おまえもお気に入りの場所が無くなっちまったな。僕と一緒に来るか?」
足元にまとわりついていたミケを持ち上げる。何故か知らないが、急に人懐っこくなったコイツは「にゃあああん」と愛想よく鳴いて僕の腕に大人しく収まっている。
「とりあえず、焼け出されたもの同士、これから協力しませんか?」
僕はここで勇気を出して杏子さんに提案してみた。彼女の少し茶色い髪の毛が炎で暖まった風にさらさらと揺れている。そして黒目がちの大きな眼で僕を見つめた。
「ええ、いいわよ。そこの猫ちゃんも一緒なら」
その言葉が分かったのか知らないが、ミケは短くにゃあんと泣いたあと小さな口であくびをした。