kyoko
第一章 『熱すぎた鍋』
この頃僕は、『彼女は別の世界で生きている人なんだ』と思っていた。しかし、僕と杏子さんは何故か急速に仲良くなっていった。それにはあるきっかけがあったのだが……。
ある日の夜、ドアを叩く音で目が覚めた。この日僕は体調が悪く、勤め先のデザイン会社の飲み会を断って早めに帰宅していた。だが、少し寝たらだいぶ体調も良くなっている事に気づく。
「はい、どなたですか?」
まだ少し頭が重かったが、ドアを開けると……緑色をした何かが立っていた。そう、それはどこから見ても『河童』だった。
「うお! 出たな河童! ってあれ? まさか杏子さん?」
ここで一気に目が覚めた。
「うふふ、ごめんね。驚いた? 今日お店が休みで、うちで二人でお鍋をやっているの。お肉たくさん買っちゃったから、良かったら一緒にどうかなって思って」
突然の、可愛い河童のお誘いである。悪戯っぽい眼をして僕をじっと見つめる。
「それは嬉しいお誘いですけど、そ、その格好は?」
このシュールな絵を他人が見たらどう思うだろうと考えたら、僕も急に愉快な気持ちになってきた。
「あ、友達が『どうせ誘うなら、ついでに笑わして来たら?』って言うから、か、仮装パーティーで使ったこれを着てきたんです」
僕の驚いた顔を思い出したのか、杏子さんは俯いて笑いをこらえているようだ。水かきのついた手を口元に当ててぷるぷると身体を震わせている。
「あの、我慢しないで笑ってくれて結構ですよ。ところで、もう一人の方はお友達ですか?」
「ええ、お店の友達です。彼女めっちゃ可愛いですよお」
既に少しお酒が入っているのか、河童の頬っぺたはピンク色に染まっていた。
「分かりました。じゃあ、着替えてから行きますので。あ、そうだ、ミケのヤツは表にいました?」
帰宅した時、エサに全く手を付けていなかった。また何かあったのだろうか。
「いえ、今日は見ませんでしたね。では後で絶対に来てくださいね。あと、暑いんでこれ脱いでもいいですよね?」
「ええ。使命は立派に果たしたと思いますし」
水かきを振りながらドアをぱたんと閉める河童を見つめながら、彼女のこの行為について僕は考えを巡らせていた。今の自分の気持ちを素直に表現するならば、「ヤバい。めっちゃタイプだ!」と。
五分後、ミケの姿を探しながらも隣のドアを開けた。そこは当たり前だが僕の部屋と間取りは一緒だった。
「あら、いらっしゃい! これが例の彼ですか? なっかなかのイケメンじゃないですかあ」
細身のジーンズを履いた女性が玄関まで出迎えてくれた。
「でしょ? ゴメンね、今手が離せなくて。あっちちち! あ、彼女が友達の理絵ちゃん。私の後輩で、お店でも人気者なんですよ」
真剣な目で鍋を掻き廻している杏子さんが彼女の肩越しに声を掛ける。
「初めまして。今日はお招き頂いて、ありがとうございます」
「まーた、そんな堅苦しいこと言わないで下さいよ。先輩のお隣さんはあたしのお隣さんも一緒ですよ!」
ぱああん! と急に背中を叩かれた。ちょっと何を言っているのか分からかったが、その後輩の理絵という子の笑顔は花が咲いたように可愛いくて、僕は微笑むしかなかった。
「ちょっとあんた、もう酔っ払ってるの? ごめんなさい、この子酒癖があまり良く無くて」
「いえいえ。ところで、お店と言うのは?」
六畳の部屋の真ん中にコタツが出され、その上で鍋がぐつぐつと湯気を上げている。ちゃんと僕の席も用意されていて、ポン酢の隣につやつやのごはんがお椀に盛られていた。
「駅前に『蘭』ってキャバクラあるでしょ? 私たちそこに勤めてるの。まだ三か月ぐらいだけどね」
お酒も手伝ってか、杏子さんの口調も親しげになってきていた。
「なるほど。僕はそういうところに行ったことないので、想像がつきませんけどね」
「またまたあ! えっと、何さんでしたっけ? あ、そうだ俊介さんだ! それって本当ですかあ?」
冷蔵庫から持って来たビールを手渡しながら、ぱっちりとした目でじっと見つめてくる。
「うん、飲む時は家で飲むしね。あとは焼き鳥屋さんとか」
「俊介さんって……友達いないのねえ」
「こら! 何てこというの!」
また杏子さんに怒られて、彼女は舌を出して首をすくめる。
「いますけどね。今はミケが友達です」
「ミケ?」
「僕のところに時々やってくる猫です」
「あ、じゃあ今日からあたしたち友達になりましょっ! 大丈夫、『お店に来てね』とか絶対に言わないし」
理絵ちゃんのこの言葉に僕らは大笑いする。そして乾杯したあと、湯気をもくもくとあげている鍋をつつき始めた。
「ところで、俊介さんは彼女さんっているんですか?」
杏子さんのこの突然の質問に、僕は喉を詰まらせた。
「いえ、残念ながらいませんよ。仕事で忙しくてそれどころじゃありません」
「へええ、モテそうなのに。ね、理絵ちゃんもそう思うでしょ?」
「そうねえ、清潔感のある若者って感じで素敵よ。黒縁のメガネが凄く似合いそう。あたし的には七十五点かな」
親指を立ててウインクする。
「残りの点数が気になるけど……。そういう杏子さんたちはどうなんですか?」
「私たちは今フリーです! じゃなかったら女同士で鍋なんてやってませんて」
唇を尖らせながら理絵ちゃんが答えると、杏子さんもうんうんと頷く。
「でも、杏子さんは許婚がいるんですよね」
「うーん。いたって言った方がいいかもね。親の決めた縁談ってやつです。私はそれがイヤで家を飛び出したんですよ」
「そうですよね、ヤクザとの縁談なんて私でもお断りで」
「理絵!!」
ぴしっっと言葉を遮られ、しまったという顔をして理絵ちゃんは黙り込む。同時に重苦しい空気が部屋に広がって行く。
「しょうがないわねえ。俊介さん、聞いてひかないでね。実は私……如月組の一人娘なんです」
「え、あの広域指定暴力団の? さっき河童だったのに?」
ここで河童は関係なかった。たぶん僕は少し取り乱していたのだろう。如月組と言えば日本でもかなり大きな組織であり、一昨日ニュースでも他の組との抗争事件の様子が流れていた。
「黙っててごめんなさい。でも私、家を飛び出してから今すっごく幸せなんです。大阪で組員たちが私を探しているようですが、東京ならたぶん大丈夫だと思います」
「じゃあ、杏子さんって関西弁しゃべれるんですね」
「もちろんしゃべれますよ。でも学校はこっちだったので標準語はバッチリ……なはずです」
正直、意外だった。おっとりとしたしゃべり方で、顔を桃色に染めているこの娘が、暴力団の一人娘だとは想像もできない。だが、さっき理絵の言葉を遮った言葉の迫力は、そんじょそこらの女性の迫力ではなかったようにも思える。
「まあ、大切なのは『今』ですよね。うーん、何か暑くなっちゃいました。あ、決してさっきの話にビビってる訳じゃないですよ」
「そうよね、ありがとう俊介さん」
気のせいか、杏子さんの僕を見つめる目に熱がこもっているように見える。
フギャアアア!!
この時、突然ドアの外から猫の鳴き声が聞こえてきた。それは何度も繰り返され、言うなれば警告の響きさえ感じた。