kyoko
プロローグ
あいつを始めて見たのは、肌がぴりぴりするほどの寒い冬の夜だった。
東京に珍しく雪が降った日、僕は会社から自宅まで急ぎ足で帰っていた。肩には薄く雪が積もり、駅からの帰り道で手は冷たくかじかんでしまっていた。
いつものようにコンビニに寄り、夕食を買いアパートに着くと、あいつはまるで“昔からそこに住んでいるように”僕の部屋の前にある洗濯機の蓋の上に丸まっていた。
「おまえは雪が嫌いなのか?」
その言葉に、意外と毛並みの良い三毛猫はこちらを気怠そうに観察する。大きさから言ってまだ若い猫のようだ。しかし、すぐにぷいっと横を向くと元通りに丸まってしまった。
もともと猫は嫌いでは無い。濡れた肩から染み入る寒気にぶるっと身体を震わせながら、アパートの鍵を急いで開けて部屋に飛び込む。
(何かあいつが食べられる物あったっけ? 早くしないといなくなっちゃうかもしれないぞ)
おかしなものだ。『動物にエサをやる』ってことが僕の心を何故か高揚させている。部屋をごそごそと探し回り、やっとサンマの缶詰を見つけるとスーツを着たまま外に出る。
「あ〜遅かったかあ。ミケのヤツもう居ないし」
何か寂しい気持ちが、心の中に広がって行く。まあ、この時勝手に見たまんまの名前をつけてしまってたが、まさかこいつがこの後の僕の人生に深く関わってくるとは、この時想像だにしなかった。
ミケは気まぐれなヤツで、毎日このアパートに来ている訳ではないようだ。次の日からちょくちょく姿を見かけるようになっていたのだが、不思議な事に何故か必ず僕の洗濯機の上で丸まっている。他にも洗濯機は沢山あるのにもかかわらず、わざわざ二階まで来ているのだ。
「お、今日も綺麗に食べてるなあ」
こないだの休みに猫の缶詰を買ってきた。それを朝出かける時に洗濯機の脇に置いておくと、帰りにはペロっと中身が無くなっている。僕はそれがたまらなく嬉しく、また冴えないサラリーマン生活の小さな癒しにもなっていたと思う。
ある日、洗濯機の蓋に少量の血が付いていたことがあった。
「どうした? ケガでもしてるのか?」
少し元気の無い様子で丸まっているミケに近づくと、小さな声で「うにゃ!」と言って後ろも振り返らずに走り去ってしまった。三毛猫の雄はめったにいないはずだ。あいつはメスなのにケンカでもしているのだろうか。それとも近所の猫たちにいじめられているのだろうか。その夜は心配であまりよく寝られなかったのを覚えている。
「こんにちは」
「あ、どうも。こんにちは!」
次の日僕は休みだった。夕方になりそろそろ買い物でも行こうとした時に、ちょうど隣の部屋から出てきたお姉さんから声を掛けられた。少しハスキーな声の綺麗な女性だ。お姉さんとは言っても、二十六歳の僕よりはだいぶ年下だろう。細い身体にぴったりと合った水商売風の服を着こなす彼女の横顔は、夕日に照らされて少し微笑んでいるようにも見える。
「これから出勤なんですよ。あれ、今日は猫ちゃんいないですねえ。いつもこれくらいの時間にここに」
綺麗なピンク色のマニキュアを塗った指で指した先は、やっぱり僕の洗濯機だった。
「あいついつもこんな時間から居るんですか? へええ」
「まるであなたの帰りを待っているような感じで、ここで寝ているわよ。あなたが飼ってる猫だと勝手に思ってましたけど。えっと、蜂谷さん……でしたっけ?」
彼女はドアの表札にちらっと目をやると、頭を下げた。
「いえ、飼ってはいないんですけど。いつの間にかここに来て座るようになっちゃって。あ、もし迷惑かけてたらすいません」
「いえいえ、私も猫ちゃん大好きだから気にしないで下さい。あ、お隣さんなのにこうして話すのは初めてですよね。あたし如月杏子さんって言うの、よろしくね」
「あ、僕は蜂谷俊介って言います。改めましてよろしくお願いします!」
「こちらこそ。あっ、もうこんな時間! 遅れると店長がうるさいんですよ。じゃあまた」
ペコっと頭を下げると、甘いコロンの香りを漂わせながら横をすり抜けて階段を降りて行った。
「うーん、知らなかった。あんな綺麗な女性が隣に住んでいたとは」
これが――僕と杏子さんの最初の出会いだった。
あいつを始めて見たのは、肌がぴりぴりするほどの寒い冬の夜だった。
東京に珍しく雪が降った日、僕は会社から自宅まで急ぎ足で帰っていた。肩には薄く雪が積もり、駅からの帰り道で手は冷たくかじかんでしまっていた。
いつものようにコンビニに寄り、夕食を買いアパートに着くと、あいつはまるで“昔からそこに住んでいるように”僕の部屋の前にある洗濯機の蓋の上に丸まっていた。
「おまえは雪が嫌いなのか?」
その言葉に、意外と毛並みの良い三毛猫はこちらを気怠そうに観察する。大きさから言ってまだ若い猫のようだ。しかし、すぐにぷいっと横を向くと元通りに丸まってしまった。
もともと猫は嫌いでは無い。濡れた肩から染み入る寒気にぶるっと身体を震わせながら、アパートの鍵を急いで開けて部屋に飛び込む。
(何かあいつが食べられる物あったっけ? 早くしないといなくなっちゃうかもしれないぞ)
おかしなものだ。『動物にエサをやる』ってことが僕の心を何故か高揚させている。部屋をごそごそと探し回り、やっとサンマの缶詰を見つけるとスーツを着たまま外に出る。
「あ〜遅かったかあ。ミケのヤツもう居ないし」
何か寂しい気持ちが、心の中に広がって行く。まあ、この時勝手に見たまんまの名前をつけてしまってたが、まさかこいつがこの後の僕の人生に深く関わってくるとは、この時想像だにしなかった。
ミケは気まぐれなヤツで、毎日このアパートに来ている訳ではないようだ。次の日からちょくちょく姿を見かけるようになっていたのだが、不思議な事に何故か必ず僕の洗濯機の上で丸まっている。他にも洗濯機は沢山あるのにもかかわらず、わざわざ二階まで来ているのだ。
「お、今日も綺麗に食べてるなあ」
こないだの休みに猫の缶詰を買ってきた。それを朝出かける時に洗濯機の脇に置いておくと、帰りにはペロっと中身が無くなっている。僕はそれがたまらなく嬉しく、また冴えないサラリーマン生活の小さな癒しにもなっていたと思う。
ある日、洗濯機の蓋に少量の血が付いていたことがあった。
「どうした? ケガでもしてるのか?」
少し元気の無い様子で丸まっているミケに近づくと、小さな声で「うにゃ!」と言って後ろも振り返らずに走り去ってしまった。三毛猫の雄はめったにいないはずだ。あいつはメスなのにケンカでもしているのだろうか。それとも近所の猫たちにいじめられているのだろうか。その夜は心配であまりよく寝られなかったのを覚えている。
「こんにちは」
「あ、どうも。こんにちは!」
次の日僕は休みだった。夕方になりそろそろ買い物でも行こうとした時に、ちょうど隣の部屋から出てきたお姉さんから声を掛けられた。少しハスキーな声の綺麗な女性だ。お姉さんとは言っても、二十六歳の僕よりはだいぶ年下だろう。細い身体にぴったりと合った水商売風の服を着こなす彼女の横顔は、夕日に照らされて少し微笑んでいるようにも見える。
「これから出勤なんですよ。あれ、今日は猫ちゃんいないですねえ。いつもこれくらいの時間にここに」
綺麗なピンク色のマニキュアを塗った指で指した先は、やっぱり僕の洗濯機だった。
「あいついつもこんな時間から居るんですか? へええ」
「まるであなたの帰りを待っているような感じで、ここで寝ているわよ。あなたが飼ってる猫だと勝手に思ってましたけど。えっと、蜂谷さん……でしたっけ?」
彼女はドアの表札にちらっと目をやると、頭を下げた。
「いえ、飼ってはいないんですけど。いつの間にかここに来て座るようになっちゃって。あ、もし迷惑かけてたらすいません」
「いえいえ、私も猫ちゃん大好きだから気にしないで下さい。あ、お隣さんなのにこうして話すのは初めてですよね。あたし如月杏子さんって言うの、よろしくね」
「あ、僕は蜂谷俊介って言います。改めましてよろしくお願いします!」
「こちらこそ。あっ、もうこんな時間! 遅れると店長がうるさいんですよ。じゃあまた」
ペコっと頭を下げると、甘いコロンの香りを漂わせながら横をすり抜けて階段を降りて行った。
「うーん、知らなかった。あんな綺麗な女性が隣に住んでいたとは」
これが――僕と杏子さんの最初の出会いだった。