kyoko
組員たちが駅ビル方面に走って行くなか、この騒動を見つめる一人の男がいた。左頬に古い刀傷のあるその男は、鷲頭組の剣持という男だ。携帯を耳に当てて誰かと話しているようだ。
「親分、上手くいきました。鏡には例の指令を伝えてあります。ただ、昔からあのお嬢さんの成長を見てきたヤツの事ですから、いざとなると……。はい、分かりました」
剣持の顔が少し曇る。しばらくして電話を切り、まだ騒然としている現場から彼はそっと離れて行った。
「鏡、ここまでは上手くいったけれど、この後はどうするの?」
「とにかく、今はなるべく目立たないように逃げるしかありません」
彼は杏子専属の運転手を務める傍ら、幼少の頃から彼女の身の周りの警護をしてきた男でもあった。混雑する駅の構内を早足で歩きながら、辺りにせわしなく目を走らせている。少し白髪の混じりだした髪が額に張り付いていたが、その鋭い眼は少しも油断していなかった。そう、実際杏子たちの通った後をまるで有能な警察犬のように、藤堂の手下たちが三分ほど遅れて追っていた。
「そこを曲がって下さい。ヤツらにはこのまま電車に乗ったと思わせます。実はこの駅に来たのは地下通路が病院に直結しているからなんですよ」
「病院?」
改札の前を素通りし、地下に降りるエスカレーターを駆け下りながら杏子は不思議そうな顔で振り返る。
「ええ。もう手を打ってあります。お嬢さんにはこれを着てもらいます」
肩に掛けていたバッグから白衣とメガネ、そして架空のネームプレートを取り出すと杏子に渡す。
「急いでそこのトイレでこれに着替えて下さい。他の小道具は既に用意してあります」
トイレの脇には、白い布を被せられたストレッチャーがぽつりと置いてあった。
「なるほど。私がセクシーなナースに変身して、あなたを患者として病院まで運ぶって事ね。でも逆に怪しまれないかしら? 病院までまだ結構ありそうよ」
「セクシーは必要無いんですが、たぶん大丈夫です。そろそろ……頃合いですかね」
時計を見ながら鏡が独り言のように呟いた。――その瞬間、上の階から女性の叫び声に混ざって「なんだこの煙の色は。ひょっとしたら毒ガスかもしれん。みんな逃げろ!」という声が聞こえてきた。
鳴り響く非常ベルとその声に押されるように、今まで近くを歩いていた人々が地上に向かって我先にと駈け出して行く。
「米軍のつてで手に入れた発煙弾らしいんですけどね。今ごろは協力者の手によって毒々しい紫色の煙がフロア中に広がってると思います。追っ手もさぞパニックになっている事でしょう。さあ、これで我々の違和感は見事に消えました」
悪戯っぽい顔でにこっと笑うと、白い布を剥がしてストレッチャーにゆうゆうと寝ころんだ。
「なんやこの騒ぎは? おいお前、原因を確かめてこい。もっと人員が必要やから他の組にも応援を頼め。いいか? 絶対に逃がすんやないで」
駅の異変を瞬時に察知したのか、現場に到着した藤堂の指示は正確だった。しかし、鏡がその上をいっている事にはこの時の彼は全く気づいていなかった。