私の読む 「宇津保物語」 初秋ー2
律令制の後宮十二司の一。天皇に常侍し、奏請・伝宣・陪膳、女嬬(にょうじゅ)の監督、内外の命婦(みょうぶ)の朝参、後宮の諸礼式をつかさどった。尚侍・典侍・掌侍・女嬬などの職員を置く。
日給(ひだまい)の簡(ふみ)
「日給」は「につきふ」とも訓む。「じやうにち」
(上日)の事で、関白以下殿上人並に地下人が公に日々奉公するの意である。
「ふだ」(簡)は出仕する人の姓名を記した木の札で、今の出勤簿と言える。
ところが、普通「日給の簡」は「殿上の簡」とも言って、清涼殿の殿上にあるものに限られていたらしい。
清涼殿南端の「殿上」(殿上人の侍所)西寄の北窓(櫛形窓)に近く壁に立てかけてあった板で、長さ五尺三寸、広さ上の方八寸、下の方七寸、厚さ六分(階梯抄)あり、夜は袋(表両面・裏平絹)に入れる。
寸法は時代によって多少違う。その板を三段に分けて、上は四位、中は五位、下は非蔵人までが姓名を記し、その名の下に紙を貼って上番(出勤)の日数を書くのを「はなちがみ」(放紙)と言い、これによって朔日毎に日数を奏聞するのを「月の奏」と言う。
譴責などで昇殿を差止められ、殿上の間に入れなくなる場合には、「じよしやく」(除籍)と言ってその人の簡を取りはずす。「殿上の簡を削る」とはこれである。
日給の簡が右のように大きな板で、人名が書いてあった、とすると、辞令代りに尚侍にする旨を記した上に和歌を書き、次に数人の公卿達の名と歌を書込む余白があるだろうか。
ここの「簡」は寧ろ「放紙」の事かもしれない。
日給の簡の所在は、以上の文献では、「殿上」即ち清涼殿の殿上と考えられるが、ここでは仁寿殿になっている。
仁寿殿は紫宸殿の北、清涼殿のすぐ東にあった。後には帝の常御殿が清涼殿となっているが、延喜時代にはまだ仁寿殿であったことが今昔物語によって知られる。
うつほ物語の頃もそうだったとすれば、「殿上」も仁寿殿だと考えて差支ない。尤も帝が内侍督に「御
休み所は願に従ひて清涼殿をも譲り聞えむ自らはやかげに住むとも云々」(二一二頁一六行)とあるのは清涼殿を常御殿としているのであろう。殊に仁寿殿という(正頼の大君)女御の名もこの推測を裏づける。
そこで日給の簡が仁寿殿にあるのはおかしいことになる。当時の読者は宮廷の女房や殿上人達であるから、この身近な事実の誤を作者が敢てする筈はない。
今昔物語の延喜の二十二年(九二二)から村上帝治世の末、康保四年(九六七)まで四、五十年の間は、常御殿が両殿のいずれとも定まらず、その過程が日給の簡にも及んだのだろうか。
それにしてもこれほど重要な問題が今に解決されていないことは遺憾である。
(岩波書店日本古典文学大系 宇津保物語 二 補注九七から)
右大将兼雅
「かけろうです、はっきり致しませんと」
の、かけろう、は当時の諺で、意味不明。
民部卿は受け取って、従三位権大納言兼民部卿源朝臣実正と記入して、
年ふれど枝もうつらぬ高砂は
となりの松の風やこえまし
(年を重ねても枝さえ変わらない高砂の松の風は、隣の松風にまさるであろう)
と、詠って左衛門督に渡す。中納言従三位兼左衛門督藤原朝臣正仲と署名する。
いにしへの松はかれにし住の江の
昔の風は忘れざりけり
(住吉の昔の松は枯れてしまったが、その昔松に吹いた風の音は忘れられない)
と、詠って平中納言に渡す。中納言従三位平朝臣正明と署名して、
きく人はあねはの松の風なれや
むかしのこゑを思出るは
(今弾いているのはあねはの松に吹く風ではあるまいか。あゝ昔の声が思い出される)
あねは、は姉葉、陸前國(宮城県)栗原郡金成町姉歯。そこの松は小野小町の姉の墓の傍にあったと言われる。
伊勢物語 第十四段 (陸奥の国)
むかし、男、陸奥( むつ)の国にすゞろに行きいたりけり。そこなる女、京のひとはめづらかにおぼへけむ、せちに思へる心なむありける。 さてかの女、
なかなかに恋に死なずは桑子にぞ
なるべかりける玉の緒ばかり
歌さへぞ、ひなびたりける。さすがにあはれとや思ひけむ、いきてねにけり。夜ふかくいでにければ、女、
夜も明けばきつにはめなでくた鶏の
まだきに鳴きてせなをやりつる
といへるに、男「京へなむまかる」とて、
栗原のあねはの松の人ならば
都のつとにいざといはましを
(栗原にある、姉歯の松が人並みの人間であるならば、都のみやげに、さあ一緒に行こうと誘うのだけれどね)
といへりければ、よろこぼひて、「おもひけらし」とぞいひ居りける。
平中納言は、中宮大夫に渡す。中納言中宮大夫従三位源朝臣文正と署名して、
松風のむかしのこゑにきこゆるは
八十嶋よりや吹きつたふ覧
(松風が昔の声(正明の歌)に聞こえるのは、八十嶋からはるばる吹いてくるのだろう)
各人が思い思いに署名して歌を詠い、御前を下がった。
こうして北方は、胡笳の手も調子も総てを弾き終えた。帝は充分に北方の琴の音を聴いて、立派な演奏であると思うが、これ以上に調子を変えて演奏することもないのであるが、何となく物足りない気持ちがして、
.
「胡笳というのはなんとなく、しまりがないように聴こえるのだが、ご立派に演奏なさいました。今度は調子を呂から律に変えられてもう一回調子を整えて次の節会に聴かせて下さい。そしてお帰りなさい」
と、言われたので北方は、「なんかく」の曲に合わせて琴の調子を合わせて琴を離れて帝の前に侍した。帝は
「過去のことは後悔しても仕方がない。せめて今からでも、立派な節会が一回ある毎に一手ずつお弾きなさい。
節会でなくても、春秋の草木の趣が宜しい夕方などに、綺麗な手をお聴かせ下さい。
とりわけ、千年の間にある節会毎に演奏なさっても、貴女の弾く琴の手が尽きることはないと、驚いています。人生は限りのあるものだから、私の限られた生涯に貴女の千年経っても尽きない琴の音を全部聞き終わらないうちに死んでしまうのが、誠に心残りで後ろ髪を引かれるような思いです。
どうが、貴女にも私にも万年の寿命が有ればいいとばかり思っている。
千とせふる松よりいづる風の音は
誰か常磐にきかむとするらむ
(千年も寿命のある松から出る風の音を誰が永遠に聴こうとするだろう、わたしだけがそなたの琴の音を理解するだろう)
内侍のかみ(北方)
こゑ絶えず吹かむ風には松よりも
齢久しき君ぞ涼まむ
(声が絶えずに吹く風には、松の齢よりも久しい君がお涼みになることでしょう)
君と申しあげるのは帝より他には居ません。
と、北方が申しあげると、帝は
「その言葉は嬉しいが、人生には定めがないから悲しいのです。
宜しい、そなたとしても、たとえば来世で草木となるようなことがあっても、この琴の音を草木なりにお出しになるでしょうから、それを聴きましょう。
作品名:私の読む 「宇津保物語」 初秋ー2 作家名:陽高慈雨