私の読む 「宇津保物語」 あて宮
次の画面は、流罪の刑に処せられたところ。眞菅は車(網代車)、子供は馬に乗っていく。鞍は、荷鞍で、荷物を結びつける鞍として結鞍(ゆいくら)ともいう、粗末なものである。検非違使の尉、佐(すけ)達が刑を執行する。
このことを聞いて、致仕の大臣三春高基は水も飲まずに泣きながら、
「自分は昔から食べたいものも食べず、着たい物も着ないで、天下にケチだと笑われて、そうして財を蓄えたことは、いずれは死んでいくのであるが、世の中で困難な事でも金さえあれば、成就出来ると思っていた。
今は大臣の職も退いて、あて宮を妻とすることだけが目的であった。それが叶わなければ、金を持っていても何になるか」
と言って、七条の家、四条の家をはじめに、片っ端に火を付けて蓄えた財を消失してしまった。そうしておいて高基は山に籠もった。
さて、春宮は、あて宮が出産のため春宮殿を罷り出て里に帰った翌朝に、大進を使者としてあて宮に、
「『朝まだき起きてぞ見つる梅花夜の間の風のうしろめたさに』(拾遺和歌集29、兵部卿元良親王)
夜の間に、のように夜の明けるのも待ち遠しいというように急いで里帰りなさいましたね、
夕さればやどりし花もうつろひて
おもひけぬべき秋の夜のつゆ
(夕方になると秋の白露は、宿っていた花が行ってしまったので、心のやり場が泣くて消えてしまいそうです)
あて宮は見て、
いろ/\の花のなかなる白露は
萩の下葉をおもひしも出じ
(さまざまな美しい花の中にある白露が、どうして萩の下葉のようなつまらないものを思い出しなどなさいましょう)
と書いて渡して、使者に紫苑(しおん)色目の綾の細長、袴一具を被物として与えた。春宮はまた。
あひもみで月日へだつる我が中に
衣ばかりをなに恨みけん
(私達の間を隔てているのは衣だけだなどと、どうして衣を恨んでいたのだろうか。月や日も衣と同じように二人の間を邪魔していたのに)
あて宮
とし月も衣も中には多くとも
心ばかりはへだてざらなむ
(二人の間を隔てる年月や衣等いくら沢山ありましても、心だけは絶えず通いあいたいものでございます)
宮より、
よそにのみかくながらふる袖よりも
人まつ瀧の落ちぬ日ぞなき
(私をおいて、お里に長逗留なさる貴女の呑気さに比べて、私は毎日貴女を待ち焦がれて袖も滴るほど泣いているのです)
あて宮、
待つ瀧といかゞたのまんよしをだに
ねをとどめてしわかるとおもへば
(待っていらっしゃることを何とか宛に出来る事情さえあれば、ちゃんと根はそのままで別れているだけなのですから)
そうして、里の正頼方ではあて宮の産室を準備して、大人から童までみんな白装束に着替えて、大宮以下皆さんがあて宮の殿に集まって、あて宮の出産を待っていると、十月朔日に男子の御子が生まれた。
春宮からはお祝いやお見舞いの使いが何回も往復する。(出産の光景は紫式部日記に詳しく述べられている)
春宮には母の后がおられる。右大臣忠雅や右大将兼雅の妹である。
その后の宮、内裏に居られる帝とは共にあて宮出産を喜ばれる。
「春宮は二十歳になっておられる。妃が大勢入内なさっておられるが、このように出産されることがなかったことを思うと、あて宮とは本当に仲睦まじかったのであろう、だから目出度く出産されたのだ」
と思われて、出産して三日目のお祝い、三日の夜、内裏の后より 産養(うぶやしない)、銀の透箱十に、衣十襲、生れたばかりの子に着せる産衣(うぶぎ)襁褓(むつき)十襲、沈の木の衝重(ついかさね)廿、銀製の箸、匙(かと)、坏(つき)、贈り物としては月並みであるが、后からの贈り物なので品質は良好で、堂々としたものである。
更に、碁代の銭百貫を大きな紫檀の櫃に入れて、内裏の亮(すけ)を使者として、后の消息文を正頼の妻の大宮に贈り物と一緒に送る。
「久しい間春宮と妃達の間に出産ということが無かったので、あて宮出産という珍しいことを、大宮の御息女からお始めになったということ、嬉しく思っています。
羨ましそうに見える他の妃達に、あて宮を真似るように言いましょう。
お送りしたお米は、夜居の僧の夜食としてお使い下さいませ。眠気覚ましとして」
という内容であった。
大宮は使いの亮に、女の装束、品物を持って供として来た男達に、絹布などを与える。
大きな黄金の壷に 贈られた米を炊いて入れて、夜居の僧に贈られた。
返事は、
「お文有り難う御座います。皇子が先ずあて宮のお腹からご誕生になったのを大変光栄に存じておりましところ、思い通りで満足だと仰っていただきまして、誠に誠に嬉しく存じます。
夏でさえ多く食べて、残り少なくなったすき米であります」
と、大宮は送られた。
后の宮は小さな瑠璃の壷四つに大宮が送ったすき米を入れて、春宮の妃達に、
「これを肖物(あえもの) 幸運にあやかるためのものとしてお食べなさい」
と、与えられた。妃の五の宮を初めとして、妃全員がすすられた。昭陽殿はすすらなかった。
妃達は大宮の使いに、被物をして、お礼の文を書いて預けたが、左大臣源季明の娘昭陽殿は、戴いたすき米を抛り散らして言う、
「誰が姪の食べ残しなどを欲しがろう。あて宮は大勢の懸想人達の子を産んで、それを春宮の御子だと言えば、后の宮は本当かと信じて、鄭重になさる」
などと言って部屋が壊れるほどの大声で口汚く罵って、次のように言ってすき米をお返しになる。
「こうしなくても、即ちすき米などを頂かなくても、頭の大きな子は、子供を多く産むものである」
后の宮はそのことをお聞きになって、笑って、
「昭陽殿は人の心を持った女なのか、可哀想な女だ、情けないことを言われるものよ」
と仰った。
そうして、五日の夜、嵯峨院の后、大后からも后の宮同様な祝い物が贈られた。
あちこちからもお祝い、碁手物等が大変に多くて、上達部や親王達も大勢が産養(うぶやしない)として、衣。襁褓(むつぎ)などを贈られた。
七日の夜、春宮より、堂々としたして清らかに権の亮(すけ)を使者として文を送られた。大宮があて宮に換わって返事を認めた」
右大将兼雅から紫檀の衝重廿、沈の木の飯笥、轆轤(ろくろで)造った坏、衣、襁褓(むつぎ)は例の通り、兄忠雅に負けないほどの物が贈られてきた。
頭中将仲忠は、白銀の立派な壷に七草の粥を入れて蘇枋の長櫃に据えて差し上げた。
源氏中将涼は他の人とは違った趣向で産養を祝った。
帝や春宮殿の殿上人達は全員が集まった。上達部に親王達も全員が揃われた。全員の前に出された料理は見事なものであった。
碁代として二百五十貫の銭を、大きな櫃に入れて客人の前に出された。殿上人、上達部。親王達全部で二百余人。上達部には銭五貫、四位、五位の殿上人には三貫、六位の蔵人や非蔵人人は一貫づつを給わった。
夜中歌い騒いで、全員に見事な女の装束に襁褓を添えて被物とされた。
作品名:私の読む 「宇津保物語」 あて宮 作家名:陽高慈雨