小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

私の読む「宇津保物語」第 四巻  嵯峨院

INDEX|7ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

 正頼は嵯峨院へ一月二十七日、月の下旬の子(ね)の日(初子の日)の祝賀をしようと考えた。子供全員男も女も集まって祝賀のことに携わった。準備万端整えて、美しく二つと無い拵えをして嵯峨の院へ参内することにした。

【子の日の遊び】ねのひ‐の‐あそび
正月初子(はつね)の日に、野に出て小松を引き若菜を引いて遊び、千代を祝って宴遊する行事。小松引。

 綺麗に姿を整えて子供、孫と続いて、糸毛の車六台、檳椰毛の車十四台、髫髪(うない)車五台、下仕車五台仕立てて参内をした。

 先駆けは四位が廿人、五位が四十人、六位の数は勘定できない。供に、婿の君たち、みんながお出でになる。楽人達は供出来る者総て、舞の子達、君達見事な装束で、見応えのある風情である。
 お供を決めて、

 糸毛の車には、一台目に、北方の宮、若い姫達(九姫・十一・十二姫・十三姫そで宮・十四姫けす宮)六人が乗車。

 糸毛の車 二台目以下、女御の姫(長女)次々の姫達それぞれ数人づつ組んで総て乗車する。

 従者に賜る副車(ひとだまい)には、夫をもたれる姫の女房達四人づつが乗る。大人が四十人、童が廿人、下仕十人、見事な装束で乗り込む。

 大人廿人は、赤色の唐衣に蘇枋襲、もう廿人は、赤色に葡萄染襲、綾の摺り裳、髫髪(うない)子供は、全員青色の表着に蘇枋襲の汗袗、袴、綾の掻練、色はもう言うことがない。下仕はまだらにすり込んだ裳、ひはだ色の唐衣、桜襲、などを全員に与えた。

 このように色々な装束をして、舞の師匠達がさらに形よく調えてやった。

 若い人だけで、老いた人達には、この賀の準備を第一として、若い人のように装束をあげなかったので、はしたない行動に走り、自分たちが老いて見にくくなったのも棚にあげて、正頼を一家を恨むけれども、正頼は準備が整って落ち着いたならば老人達にもあげようと、聞き入れずに準備に懸命になる。

 お膳の台や、折り敷きなどのことは、それぞれが分担して受け持って事を仕上げて綺麗に整った。

 楽人や舞人達を正頼は見て、少将仲頼をお召しに使いを出した。
 仲頼は宮内卿の屋敷で、先日の賭弓の宴より帰ってから、何もする気がなくなって臥せているところへ 

「正頼大将のお召しです」
 と連絡があり、

「どういうことなんだ」
 と、使いの者に言うと

「明日の子の日に、嵯峨の院まで参上することで」

「この頃身体の調子が悪くて、伺えません」

 と答えて、正頼屋敷に参上しなかった。正頼は、
「其れは残念なこと、仲頼仲忠の居ない宴席は興ざめたものになる」
 と言って、自分で文を書く。
 このところ久しくこちらに尋ねてこないが、

 嵯峨院に心ばかりのお祝いとして若菜を差し上げたいのですが、貴方がお出でにならなくて大変残念です。お体の調子がお悪いようですが、そこを敢えてお願いするのは、特にそんなにお悪いと言うことでなければ、どんなに嬉しいことでしょう。
 この参賀は頼にとって非常に大事なことであります。少し無理してでも参加いただければどんなにか嬉しいことでありましょう

 仲頼はこの正頼からの文を見て驚き、病気で苦しいのを押して正頼の御殿に参上した。

 正頼が明日の供について仲頼に言う。仲頼は、

「東宮からも、明日東宮が嵯峨院へお行きになると言うことを東宮坊の帯刀長政から仰せがありましたが、このところ病がちでとてもお伺いできません、とお答えしたのですが、殿の御文が畏れおおくて、参上いたしました」

「そうでしたか、東宮も御賀に行かれるということを仰っておられました。お供の人を人選されたときに、長政朝臣が、仲頼も供に加わる筈であると申しておいたので、東宮はご存じだと思いますよ」 

「それであればお供いたします」

「そうか、それは嬉しいことである」

 こうして、比べる物がないほどの楽芸員をつれて立ち去って行った。御子(皇族)達や上達部は東宮のお供になりたいと思う。

 一月廿七日の朝早くに車を寄せて、宮達や姫達が乗り込もうと並んでいるところに、大宮の乳母備後の守、正頼の伯母の弟で出家している入道、いつもは参内しない人たちが列の中に混じっていた。

「我々も昔は男山、勢いがあったことがあったのだよ、お供を致しましょう」(古今集889から)

 と、見得を切っても誰一人注意する者はない。様子を見ている。

 そのようなことがあって、車に全員乗車して並んで出発する。先駆けは、四位、五位、六位、合わせて二百人ほどであった。



 源実忠宰相は、三条堀川の辺に、広い立派な趣のある屋敷に住んでいる。

 実忠の北方は、当時ときめいていた上達部の一人娘を十四歳の時に迎えて妻として、夫婦の間は、別に思う人もないから睦まじく、この世ばかりでなくて、来世で例え草木や獣になっても友達としていよう、と契り合って住んでいた処、男一人女一人の子供を授かった。

 女の子は袖君、男の子は真砂君と呼ばれていた。
実忠は一時も真砂君から目を離さず、撫でるようにして育てているうちに、家は豊かになり金や銀や瑠璃で飾った立派な大殿を造り、上下の使用人が一杯並んで豊かに暮らしているうちに、例のあて宮に想いを寄せ始める。

 北方と約束したことも忘れて、悲しむ妻と子のことも全く念頭から消えてしまって、正頼の御殿に泊まり込んでしまい、風が吹くにつけ鳥が鳴くにつけ、妻子を思い出して尋ねることもしないで、数年になった。
 北方がこれを悲しんで嘆かれることは限りがない。

 ある年の二月(如月)になった。
 さすがに立派だった実忠の屋敷も、次第に壊れ始め、人手も少なくなり、池も水草で覆われて、庭には雑草が茂り木の芽がふき花が美しく咲いても昔のように楽しむゆとりがなく、朝が来ると、もしや夫がお帰りになるのでは、と待ち望み、夜には、、夫の影でも見えれば(万葉集2642から)、と願い、涙を流して思い煩い悲しんでいる。

 春の雨が何となく一日中降るときに雨漏りして若君達が父恋しいと泣き続けているのを、母親は、また新しく悲しみを覚えて、鶯の子が巣の中で雨に打たれているのを取ってこさせて、このように書いて夫に届けさした。 

 春雨にともに古巣のもりうきは
       ぬるゝ子どもを見るにぞありける
(春雨が降るのでこの古家も古巣もともに雨漏りして守ることが難しい、子供も鶯の巣も共に濡れびたしになっているのを見るのは心憂く悲しく辛いことです)

 これ以上ひどい宿は見ることが出来ません。さても真砂は数知らずとか申します。ここの真砂はすっかり忘れられて何という可哀想なことでしょう。

 と、したためて送った。実忠宰相はこの文を見て、

「尤もなことだ、どんなに私を恨んでいることだろう」と、思われて、

 すみなれし宿をぞ思ふ鶯は
花に心もうつるものから
(住み慣れた宿を切に恋しく思う。たとえ浮気な鶯が花から花へと移りはするものの)

 思い詰めず気長に待ってください。誠にどんなに苦しんでおられるかと思うからこそ。真砂は数が一しかないと悟ったときに戻ってくるだろうと仰ってください。