トランキライザ
「じゃあ先に帰っといてくれえや。おばあさん一人で帰れるけえ」
「馬鹿言わないでよ。置いて帰れるわけないじゃん。一緒に帰るんだよ」
しゃがみ込み、祖母に背中を差し出す。しばらくその姿勢のまま動かない悠基に納得したのか諦めたのか、祖母はおぶさってきた。悠基は立ち上がった。何も無しで立つ時と変わらない、人をおぶっているとは思えないほどに軽かった。そのまま走り出すこともできそうで、何故だか無性にそうしたくもあったが流石に危険だと思い直し歩いて帰った。帰り道でも人には会わなかった。
あの日に片付けなかった父の部屋はいつの間にか元通りとなっていた。悠基は父の小物入れから絆創膏を取り出した。まるで何事も無かったかのようだった。この部屋だけの時間が動きを止めたような錯覚は、悠基が捜し求める安寧を想起させた。ここがそうなのか。
この部屋は悠基の部屋と同じく二階にあった。祖母の部屋と居間は一階で随分長い間祖母の行動範囲はそこだけだった。今の祖母ではここまで上がってくることはできずに、だからこそ悠基がこうして絆創膏を取りに来たのだった。
絆創膏を手に祖母の自室へと戻ろうとしてあの薬が目に留まった。心なしか前に見たときよりも見つけやすい位置に動いている気がした。袋を手に取り中身を検めると前回見たときよりも既に服用したのか何錠か減っているようだった。この部屋で唯一の現実。秩序を乱すものだった。
「ゆうちゃん、絆創膏見つかったかあ」
階下から祖母が叫ぶ。
「あった。今行くから」
叫び返した後で手にした錠剤を見つめる。プラスチックに包まれているはずの薬から独特の香りがしたような錯覚を覚える。病院を思わせるそのにおいに悠基は死と生の両方を嗅ぎだした。
「必要ないよな、こんなもの」
誰に聞かせるわけでもなく呟き、そのまま悠基は下に降りて行った。
「じっとしてて」
祖母の部屋に降りてきた悠基は祖母の鼻梁に沿って縦に絆創膏を貼り付けていた。
「できた。これで大丈夫だと思うけど」
「ありがとうなあ」
貼った絆創膏に軽く指で触れる祖母は家に帰ってからは普段と変わりなく見えるものの、やはり相応の疲労が溜まっているのだろう。残された時間は残り少ない。もう悠基は腹を決めていた。
「ゆうちゃん」
「何?」
絆創膏を返してこようと祖母の部屋を出かけた悠基が呼び止められる。
「体には気いつけえよ。おばあさんはもうこんなになって、後は衰える一方だけどゆうちゃんにはこれからまだまだ人生があるだけえ」
悠基は答えないが祖母は続ける。
「もうほんにおばあさんは懲りたけえ。まだまだ若いと思っとってもゆうちゃんについて行けんかったしなあ」
不穏なものを感じながらも黙って聞き続ける。
「後はどうやって迷惑掛けずに逝けるかだけえ。もうおばあさんが考えることはそれだけだ」
「やめてよ」
大声にはならないように、しかしはっきりと怒気を込めて言い返す。明らかに視線を会わせることを避けている祖母の表情は伺えない。
「やめてよ、そういうこと言うのは」
この怒りは真実祖母に対しての怒りだった。
「悪いけど、おばあちゃんには長生きしてもらうから。最低でも僕が大学入るまでは絶対に生きててもらう。わかった?」
「すまんなあ」
悲しげな笑みを浮かべた祖母を一瞬見てすぐに目を逸らす。
「そういうことだから。次そんなこと言ったら本気で怒るから」
それだけ言って今度こそ部屋を出て自室に向かう。相変わらず散らかったままだった。
「掃除をしなきゃな」
呟いて、辺りを見回す。足元に転がっていた英和辞書を手に取り、勉強机に向かう。もう一度部屋の中を見渡せば、ものが溢れかえった様子が目に入る。以前感じた秩序はいまや無く、ただ嫌悪感を催すだけだった。
ズボンのポケットに入れていた薬の小袋を引っ張り出し、錠剤を手に出した。塩酸ドネペジル5mg。こんな小さな一粒で祖母を元に戻すことはできるはずもないが。
知識はそれを扱えるものが持って初めて意味を持つ。なにもそれは知識に限ったことではない。豚に真珠、猫に小判。諺は普遍的だからこそ諺たり得る。
これはアルツハイマーの治療薬の形を取った劇薬だ。悠基を殺し、祖母を生き返らせる。
惜しいな、と思う。自分も決して頭が悪いほうではないのに。しかしこうなってしまった以上は他に方法は無い。
自分は既に役に立たず、今消えようとしている。それをすることで祖母は生き長らえ、よって悠基も生かされる。自分を生かすために自分を殺す。矛盾しているようにも思えるそれはしかし真実であり、どこかくすぐったいような可笑しさも伴う。そう思うのも今は悠基だけで、一方の悠基も笑い出すには至らなかった。
「すぐに笑えるようになるさ」
手に乗せていた錠剤を口に含み、噛み砕く。辞書を開き最初の一ページ、Aから始まる単語を記憶してゆく。机の上にあったペンとノートを使って、何度も単語を書き付け、日本語と英語を交互に読み上げてゆく。最初のページを終えると次のページも同じことを続ける。流れ込んでくる言葉は頭文字がAだということ以外に何の関連も無い。悠基の中に入ってきたそれらは形を変えられ、理想的な祖母と悠基を記述してゆく。表と裏に書かれた単語全てを記憶したページを破り取る。縦に細かく千切り、それらを手のひらの中で丸める。文字が無造作に散らばった紙の玉、これこそがいつか見た最初の一ページであり、悠基にとっては最終章の始まりだった。現在の悠基の中で産み出されているそれを口の中に放り込み、咀嚼、嚥下する。味も食感も無い。悠基は次のページの単語の吸収に取り掛かった。
どのくらい時間が経ったのか、辞書はVの項目まであらかた食い尽くされていた。悠基は辞書を取り込むことを止めない。薬の副作用か、眠気が強くなってきていた。欠伸のために口が開いたところでこれまでの成果が全て水の泡となってしまうような気がして、舌を噛んで必死に欠伸を殺していた。
強まる眠気と闘いながら、Vを全て終える。残り四項目となり。終わりが見えてきたところで集中力が一時的に途切れる。ふと祖母の顔が浮かんだ。見る見るうちに髪が豊かに、皺が少なくなってゆく。祖母があの声で笑い出す。励まされる形で悠基は暗記を再開する。続けながら、久しくこの声を聞いていなかったことに悠基は気付いた。
祖母はますます若返り、笑い声もさらに大きくなっていく。悠基が生まれる前の姿にまでなった祖母の顔はそれでも止まらない。やがてその顔と笑い声は悠基の忌み嫌う木偶の連中のそれへと変化した。吐き気が込み上げ、瞼を開けているのがやっとのほどになるが、悠基は手と口を動かし続ける。しばらくそうしているうちに吐き気は引き、笑い声も聞こえなくなっていた。木偶達の顔は悠基が最も嫌う、同時に最も好かれている少年の顔となっていた。
「そろそろ寝る時間だ。丁度いいところまできてるからな」
意識がはっきりとしない中でもその声はやけに明瞭に聞こえた。
「まあ、よく頑張ったほうだと思うよ」
手を止め、眼鏡を外して脇に置いた。机に突っ伏す。
「それじゃ、お休み」