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トランキライザ

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 電球を買うのを忘れていた。思い出したが既にどうすることもできずに悠基は眠りへ落ちていった。

 抜き打ちテストが返ってきたのは席替えが終わった後だった。新しい席は廊下に一番近い列の最後尾だった。いまだに交換されていない以前の席の壊れた蛍光灯の下から離れることができたのは幸運と言えたが、一方で隣の席だった木偶が何の因果か悠基の前の席になったのは不幸だった。
 席が替わっても教室は何も変わらない。これまでの席順がやかましさを構成していたものではないということに悠基は少なからず驚いた。仲がいい人間が近くにいればつい話したくなってしまうことも理解はできたが。人によってはこれをクラス全員の仲がいい証拠だと言って憚らない。『全員』の中に悠基は含まれていない。
「よく頑張ったな」
「どうも」
 言いながら、内心舌を打つ。よくもまあこれだけ手のひらを返せるものだ。返事に皮肉を込め、数学教師からテストを受け取る。伝わってはいないようだった。答案を見なくても点数の予想はできていた。
「何点だった?」
 また木偶が点数を聞いてくる。それには答えず「今日はひったくらないんだな」と茶化すと、困ったような顔をして肩をすくめられた。
「この間見せてもらったときに嫌な顔されたからな」
「見せてもらったとき」
「この間の数学のテスト。覚えてないか」
 鸚鵡返しをしたのは忘れていたからではない。悠基は微笑んだ。この笑顔が彼にどう見えるかとうことを想像するだけでさらに可笑しさが込み上げてくる。声を出して笑い出しそうになるのを堪えるのに必死だった。
「まあテストの点はいつも通りだったけどな。知っての通り俺が数学でいい点取れるわけもないし」
「そうか。俺は今回結構良かったけど」
 えも言われぬ興奮が体中を駆け巡り、悠基は内心に快哉を叫んだ。聞きもしないのに喋った点数は、彼からすれば高得点だったのだろうが、悠基の点数に比べればずっと下に違いなかった。テストの点数という取るに足らない指標で他人の上に立とうとしたにも関わらず、それが崩れ去ってゆく。何よりも本人がそのことを知らないというのは悠基の勝利だった。いい傾向だと言えた。
 騒音としか思えなかったクラスメイトの話し声も、今は小川のせせらぎに勝るとも劣らない。今目の前にいる木偶の一人からももはや嫌悪は感じない。全てが悠基の思い通りとなっている。

「ただいま」
 玄関を開け、まずそう叫ぶ。鍵は開いていた。
「ただいま」
 さらに続ける。全身に漲る喜びは帰宅の喜びだった。ついに帰ってきた。帰ってこれた。
「ただいま」
 祖母はいるはずだったが聞こえていないのか返事はない。構わず持ち歩いている薬を二錠取り出し、噛まずに飲み込む。即効性は無いはずだったが、体の奥底から湧き上がってくる熱によって階段を駆け上がり、悠基は自室へと飛び込んだ。
 気が付けば、辺りには食い散らされた参考書が転がっていて、窓から差していた日差しは既になかった。記憶が無いわけではなく、思考する能力全てを記憶に振り向けた結果だった。文字通り取り込まれた知識は悠基を構成する血肉となっている。
「帰っとるだか」
「帰ってるよ」
 机に向かっていた悠基は、祖母の声に返却されたテストを掴み部屋を出た。階段を下りたところで祖母に出くわした。
「お帰り」
「ただいま。おばあちゃん、見てよこれ」
 祖母の目の前で勢いよく答案用紙を広げ、強引に手渡す。
「満点だよ」
「あらあ、すごいがなあ」
 無邪気に喜ぶ祖母は悠基が望んだとおりに現実として現れた祖母だった。
「ゆうちゃんがテストを見せてくれるのは久しぶりだなあ」
「まあね」
 中学時代はことあるごとに見せていたが、高校に入学してから、相対的に馬鹿となったときから祖母に見せることはしていなかった。その間のことをどう説明したものかと悠基は思い悩む。
「実は、最近あまり点が良くなかったんだ」
 それでもそう言ったのは既にそれが存在していなかったからだった。今では笑い話となった失敗として悠基は祖母に語る。
「高校入ってから授業の進む速度とか、一回の授業で習うこととか、中学とは全然違ってなかなかうまくいかなかったんだけど。でもこの間いい方法を見つけたから」
「そうか」
「ねえ、僕がこういう点とって嬉しい?」
「そりゃあ嬉しいがな」
「孫がこういう点とって嬉しい?」
「嬉しいで」
「そりゃよかった。これからもっと成績上げるから。期待してくれていいよ」
「ああ、期待する期待する」
 そうやって祖母は笑った。悠基も笑った。
「今日はどっか出かけたの?」
「いいやあ、もう出かけることはようできんけえなあ」
「それがいいよ。外には出ないほうがいい。この間は僕のせいであんなことになっちゃったし」
「気にせんでええ。おばあさんが身の程知らずだっただけだけえ」
「そう言ってくれると救われるけど。じゃあ、そういうことで。頼むよ」
「はいよ」
 悠基は自室へ戻っていった。祖母も自分の部屋へと戻っていったようだが悠基はその姿を見ていなかった。

 祖母が死んだのはその次の日だった。
 土曜日だったが、全国模試の受験のために悠基は登校していた。模試そのものはなんら問題とはならなかった。全教科終えた後に配布された模範解答と問題用紙にメモしておいた答えを照らし合わせる。満足のいく結果ではあった。相も変わらず黙ることを知らずにいちいち何かを喋りながら答え合わせを続ける木偶を尻目に一足早く教室を抜ける。
 生徒玄関を出ると、丁度雨が降り始めた。傘を持ってきてはいなかったので父に迎えに来てもらおうかと携帯電話を開いた瞬間、着信があった。父からだった。
 おばあちゃんが死んだ、交通事故だ、と父は言った。
 おかしなことになってしまったな。そう呟いたのは自分だったか。
「とりあえず迎えに来てくれない?」
 父の返事は聞かずに悠基は電話を切った。

 家に帰ると祖母の部屋へまっすぐに向かった。独特のつんとした臭いが鼻を突く。加齢臭だと忌み嫌っていた臭いだった。すぐにこの臭いも消えてしまうのかとちらと考えた。これまで祖母の部屋にはあまり入ったことはなかったが、それでも主がいないからか、どこかいつもと違い寒々しい気がした。
 この部屋の家具は全て祖母の使いやすい高さに合わせてある。卓袱台、箪笥、そしてたこ糸をくくりつけられ延長された電灯の紐。部屋の隅の戸棚の上に祖父の写真があり、その横には葉書と封筒の束と切手が大量に何かの菓子の小箱にまとめてあった。もう一方には量りがあった。封筒の重さを量るためのものらしかった。
作品名:トランキライザ 作家名:受け渡し