トランキライザ
そこで言葉が途切れてしまったのは息切れからではなかった。こみ上げる吐き気にも似た不快感を堪え、一度大きく息を吐く。それからこれは言ってはいけないと気付いて、別の言葉を探し出した。
「家はこっちじゃないよ」
「ああ、そうかいなあ」
感情が感じられない口調には気付かない振りで、悠基は「こっちだよ」と祖母の手を引いて曲がり角まで戻り、集落への道を歩いてゆく。それでも祖母は三軒目を通り過ぎようとして、もう一度同じやり取りをする羽目になった。
メールが功を奏してか、父は早くに帰ってきた。
父は悠基から事情を説明された後で祖母の部屋へと向かった。父の声だけが悠基のいる居間に届いてくる。
「どうしただ、お母さん。何があっただ」
悠基と話す時は標準語を使う父は、祖母と話す時には鳥取弁となる。この時だけ父は祖母の息子となる。同時に祖母は父の母となり、そういったものの集合が祖母で、そのうちの幾分かは悠基が担っていたはずだった。もちろんそれは逆もまた然りで、悠基もそうやって生きてきて、父もおそらくはそうなのだろう。しかしこれからは。
父はまだいいだろう。けれども現在悠基の大部分は父と祖母によって占められていた。どちらかが欠ければ、悠基も半分死ぬことになる。それはすぐ近くまで迫っている。
父がリビングに戻ってきた。
「ご飯は?」
父が祖母と何を話したかなど聞きたくはなかった。
「惣菜買ってきたから。ご飯よそってくれ。父ちゃんは皿と箸用意するから」
「うん」
「ご飯は二人分な。おばあちゃんは今日はもう寝るって」
「わかった」
配膳を終えて食卓に着く。父と二人だけの食卓というのは久しぶりだったが、話題は無かった。父がテレビのリモコンを手に取りザッピングを始める。
「どれもいまいちだな」
そしてリモコンを渡される。
「何か見たいのあったら見ていいよ」
「じゃあこれ見ててもいい?」
画面には芸人がくだらない話をしている様子が映っていた。確かに父の言うとおりにつまらない番組だったが選択の余地は無かった。
夕食をあらかた食べ終え、悠基が皿を台所の流しに運んで戻ってきた時に父が切り出した。
「さっきおばあちゃんと話してきたんだけど」
悠基は観念しテレビの電源を切り、卓袱台を挟んだ父の向かいに腰掛ける。
父の話した内容は既に聞いたものが殆どだった。祖母は行き先を忘れ、帰り道を忘れた。
「僕の名前は」
父の話が一段落したところに呟く。
「僕の名前は覚えてたのかな」
田中氏の話によれば祖母は「孫」としか言っていなかったらしい。
「それは聞いてないけど、多分」
父は皆まで言わなかった。愚問だった。
「うちの場所は忘れてたよ」
「え?」
初耳という風に僅かに身を乗り出してきた父に悠基は簡単にあらましを話した。聞き終えた父は腕を組み目を閉じた。悠基は何も言わずにただテレビだけが不釣合いな明るさだった。父が口を開く。
「明日休みだろ? おばあちゃんには出歩かないように言っといたけどさ。お父さんは明日も仕事だから」
「わかった」
明日は土曜日だった。
悠基はリビングを出て自分の部屋に向かった。廊下はやはり暗かったが、ただ歩く分には問題とならない程度の暗さだと思えたので明かりは点けなかった。廊下を半分ほど歩いたところで悠基は思わず立ち止まった。いつかのように祖母がそこにいた。
「寝たんじゃなかったの」
返事はなく、虚ろな目で悠基を睨めつけてくる。その姿に冷たいものを感じ、思わず手を伸ばす。すると触れた瞬間に祖母は立てかけられた掃除機に姿を変え、廊下に派手な音を撒き散らして倒れた。
「何の音だ?」
リビングから父が聞いてくる声に「何でもない、掃除機を倒しただけ」と答えながら掃除機を邪魔にならない場所へと運ぶ。改めて見ると立てかけた掃除機と祖母の背丈だけはなるほど同じぐらいだった。
原因は祖母のみにあるのではないという事実に悠基は打ちひしがれる。そしてこれではいけないとリビングのドア近くにある電灯のスイッチを入れに戻った。しかしスイッチは何度押しても蛍光灯は灯らない。電球が切れているらしい。
「お父さん、廊下の電気が切れてるんだけど」
ドア一枚隔てた父に呼びかけると「明日暇なら買ってきてくれ」と返された。
「わかった」
空虚な時間に意味が宿る。悠基は電球の型番をメモしておこうと電球を取り外しにかかった。
午後になっても外出はできないでいた。貴重な休日の半分はテレビゲームに興じるうちに過ぎていった。無為な時間を過ごしているという自覚はあっても、むしろあるからこそに無為なのだろう。木偶の連中はこういった無力感を感じることが無いに違いない。それでも、それだからこそに彼らは幸福なのか? 悠基からすれば地獄と思える木偶は存外幸せを感じているのかもしれない。他人から見た幸福。そんなものは悠基が最も軽蔑していたものではなかったか。
祖母から見た悠基。悠基の幸せは祖母の幸せか? おそらくそうだろう。ならば逆は。祖母の幸せは悠基の幸せか? それも多分そうだ。祖母が喜んでいれば悠基の気分も悪くはない。
それでは今、祖母と悠基は幸せか? 少なくともおれは幸せじゃないと悠基は断言する。不幸とまではいかないが決して幸せではない。
「ごめんなさいよ」
唐突にドアが押し開けられ、祖母が顔を覗かせる。悠基は体はテレビを正面に顔だけを振り向かせた。
「何か用?」
「顔を見に来ただが」
そうやっていつもの調子で笑う祖母の顔には昨日と打って変わりゆったりと感情の起伏が見て取れた。そうなると何故だか悠基にもいつも通りの疎ましく思う感情が生まれるのだった。
「野球見取るだか」
テレビに映っているのは野球中継ではなく、それを再現した野球ゲームの画面だった。実際の野球中継の構図をなかなか精巧に模したそれは動きに若干のぎこちなさはあるものの、よく似せてある。こういったものに疎い祖母が見間違えるのも無理はなかった。
「ゆうちゃんは野球が好きなだか」
「うん」
「そうか」
悠基の無愛想な返事にも満足そうに祖母は頷く。しかし悠基はそれ以上祖母に向いていることができなかった。
画面に映る試合はニ対ニの同点で九回表、ランナーニ三塁で二死。悠基の操作する後攻チームはピンチを迎えていた。コントローラーを介し、投球動作を入力すると画面の中では実際の投手と同じ動きでピッチャーがボールを投げ込んだ。低めを狙って投げたボールをバッターは見送る。ストライク。審判がストライクを宣告する動きもバッターが一旦打席を外す様子も全てが本物じみていた。もちろん悠基はこれが野球ではないことを知っている。
「今日どっか出かけたりするの?」
「今日は墓掃除に行こうかと思っとったけどよお、お父さんに止められちゃったけえなあ。もうすぐ彼岸だけえ掃除せにゃあならんのに」
「そう」
相槌を打ってから再び操作を始める。画面のピッチャーは先ほどから微動だにしていなかった。もしこれが現実のプロ野球ならばボールを宣告されることもある。だからと言ってこのゲームは野球のルールを完全に再現していない、欠陥だと主張する人間は悠基を含めて一人としていない。