トランキライザ
何もせずにただ時間が過ぎているといろいろなことを考える。こうも純粋な暇は久しぶりだった。俺は何をしているんだろうと考え始め、俺はどうしてこんなところにいるんだろうと問い直す。祖母が呆けたからか。強く否定する。責任は自分にあった。
人間はどこまで人間か。以前考えたことを再び思考する。祖父はどこまで祖父だったか。もし本当に家への帰り道も覚えていないほどに痴呆が進んでいるのなら、祖母は祖母と言えるのか。悠基は今も悠基でいることができているのか。最後の問いだけ答えが出ている。悠基は以前とは明らかに別人だった。ならどうする。どうすればいい。
ここは安寧ではなかった。雨は傘が覆いきれない悠基を濡らし、駐車場の車は騒音と排気ガスを撒き散らす。最後に登場するのは祖母によく似た何かだ。悪夢以外の何物でもない。帰らなければならない。祖母と一緒に。
新しく駐車場に入ってきた軽トラのヘッドライトが目に突き刺さり、悠基は思わず片目をつぶった。停車してもエンジンを止めない軽トラの助手席から祖母が降りてくるのが見えた。悠基は祖母に向かって駆け寄る。
「おお」
祖母の発した言葉はそれだけで、普段とは違う抑揚の無い声だった。悠基は無言で祖母が雨に濡れないように傘を差した。
運転席から降りてきたのは父と同じぐらいの年齢と見える女性だった。
「石川さんですか」
「ええ、そうです。お孫さん?」
「はい」
まずは礼を述べるべきか迷惑を掛けたことを詫びるべきなのか分からず「どうもすみませんでした」と茶を濁した。
「いえいえ。おばあちゃん、良かったなあ。お孫さんが迎えに来てくれたけえ、もう安心だ」
そう言いながら微笑む石川さんに「ほんにあんたには世話になって。ありがとう」と祖母が頭を垂れる。悠基も合わせて腰を直角に折り曲げた。
「やめんさいな、もう」
困ったような山田さんの声を上から浴びながら悠基はしばらくそうしていた。
頭を上げ、傘を祖母に持たせる。
「ほんに良かったです。おばあさんは眼科に行こうとしてお昼過ぎに家を出たらしいんです。でも途中で道が分からんようになってしまって。五時くらいかな、うちに来たのは。それから少しお話して、うちのお父さんに電話を掛けてもらって、ここに来たんです」
「そうなんですか。あの、失礼ですがお宅はどのあたりに?」
「うちは福部です」
祖母が目指していた病院とは全く違う方向の場所で、そう近くもない。
「まあ、こうして何事も無かったんで。私はそろそろ帰りますね」
「本当に、ありがとうございました」
軽トラに乗り込もうとする石川さんに再び悠基は頭を下げる。
「ちょっと待ちんさいな」
それまで黙っていた祖母の一言に悠基は思わず顔を上げた。祖母が傘を放り出し、しかしそれも気にならない様子で軽トラに取り付き財布から出した紙幣を石川さんに渡そうとしていた。
「いい、いい。そんなお金が欲しくてやったんじゃないだけえ」
「そんな言うても、わしはあんたに世話になって。受け取ってくれえや」
「いけんって。ほら、お孫さんも困っとるが」
祖母を止めるか、一緒になって金を渡そうとするかどちらが正しいことなのか判断できずにただ突っ立っているだけだった悠基は、そう言われてもどうすることもできなかった。やがて祖母が押し切られたのかしぶしぶといった風に財布をしまう。
「せめて住所を教えてくれんか。お礼に行くけえ」
「ええって、ええって」
「そんなこと言うないや。後生だけえ」
石川さんが助けを求めるようにこちらを見てきた。悠基は少しだけ頭を下げて返事とした。その仕草を読み取ってもらえたのか、はたまた問答をもう一度したくはなかったのか、とにかくも石川さんは住所を告げて帰っていった。悠基は見えなくなるまで軽トラに向かって頭を下げ続けた。携帯電話を取り出し、今しがた聞いた住所を記録する。携帯電話をポケットにしまってから落ちていたままだった傘を拾い上げ、祖母に声を掛ける。
「帰ろうか」
祖母は何も言わずに頷き、歩き出していった。
雨は傘が必要なくなるほどに小降りになっていた。この辺りでは暗くなれば出歩く人間はほとんどいない。車ばかりが悠基と祖母のすぐ横の車道を何台も通り過ぎていった。
走れば五分でも祖母と歩けばそれなり以上の時間が掛かる。悠基は祖母のすぐ後ろを祖母に合わせた普段の歩行の半分以下の速さでついていった。
歩き始めてからも会話は無かった。疲れて混乱しているだろう祖母を気遣うというよりも、かける言葉が見つからなかった。どんな言葉も今の祖母には届かない。祖母が遥か遠くにいるような錯覚に陥る。もしくはもういないのかもしれなかった。
父に連絡を取っておいたほうがいいかと考え付き、携帯電話を取り出す。早く帰ってきてほしい、といった内容のメールを作成する。メールを打つのは得意ではない。この危急の事態をどう説明すればいいのかと悩む。仕事中で電話も長文のメールも憚れる中でどうにかして緊急事態であることを伝えようと『至急』の文字を入れてみたが、どうにも上滑りしているような気がした。それでも送らないわけにはいかず、『送信しました』の表示を確かめてから携帯電話をしまった。祖母は変わらずに腰を曲げたまま前を歩いている。いつも外出時に使っている杖を今の祖母が持っていないことに悠基は今更気が付いた。
「おばあちゃん、傘、杖代わりに使う?」
返事はない。
「おばあちゃん」
「なんだあ」
「杖の代わりに傘、使う?」
「ええ?」
今日ばかりは苛立ちも起こりえなかった。そのかわりに浮かび上がってくるやるせない気持ちを誤魔化すつもりで、噛んで含めるようにもう一度聞く。
「傘を、杖の代わりに。使う?」
「ああ。いいけ、いいけえ」
祖母は歩くことを止めない。速さこそ遅々としたものだったが悠基はついていくのが苦しかった。
下を向きながら歩く。ズボンの裾が長く、踵で踏みつけて濡らしていた。裾を上げようかどうしようかと迷いながらそのまま歩き続けていると靴紐までほどけてきたので足を止めて屈みこんだ。祖母は悠基に構わず進んでゆく。紐を結び終えたところで携帯電話が鳴った。画面に父からの『できるだけ早く帰る』の返信を見て、悠基は立ち上がった。祖母は既に通りを自宅へと続く曲がり角のある丁字路まで進んでいた。この角を曲がって集落に入り三軒目が自宅だった。携帯電話をしまい祖母に追いつこうとした悠基は、しかし直進して角を通り過ぎた祖母の後姿を目にして動けずにいた。そうしている間にも祖母はずんずんと歩き、闇の中に溶け込んでゆく。
何をしている、どこに行こうとしている。あらん限りに叫ぼうとする自分がいる一方で、すぐに追いかけろと指示を飛ばす奇妙に冷静な自分もいた。悠基は祖母の背中目掛けて走り出す。結び方が緩かったらしい靴紐が一歩ずつ足を踏み出すたびにほどけてゆく。濡れた地面と相俟って何度も足を滑らせ体勢を崩すが、必死にそれを立て直す。ここで転んではいけないという根拠の無い確信だけがあった。
祖母を追い越したところで止まり、前に立ち塞がって祖母を見る。こちらを見上げる祖母の顔は、なぜだか初対面のそれに見えた。
「どこに」