トランキライザ
こういうところは似なかったらしい、と悠基は小物入れの中からセロハンテープを探し出そうとしながら苦笑する。悠基と父が似ていると言えるの部分は食べ物の好みだった。まだ祖母が台所に立っていた頃に「あんたらは嫌いなもんが多くて困る」とこぼしていたのを思い出した。
混沌を体現したような自室の状況とあまりに対称な父の部屋にいることでこの後自室を掃除しようかという思いまでが芽生えてくる。そもそもこうして父のセロハンテープを借りることになっているのも自分のものが混沌に飲み込まれ見つけることができなかったからだ。今から始めれば父と祖母が帰ってくるまでには間に合うだろう。壁に掛けられた時計から父の机へと向き直ったところで、悠基は父の机に普段見慣れないものがあることに気が付いた。
ラックに立ててあるノートに挟んであったその袋には内用薬と書いてあり、その下に祖母の名前があった。滅多に病気をしない父の部屋に、さらに祖母に処方されたそれはおよそこの部屋に似つかわしくなく、一種の焦燥感を悠基に感じさせた。手にとってしばらく眺めた後にそのまま元あった場所に戻すことはせずに中身を検めようとする。袋を逆さまにして振り、中身を取り出そうと試みたが、何かが引っかかっているのかなかなか出てこない。諦めて指を突っ込み無理に引っ張り出す。取り出せたが袋の口が少し裂けた。
中に入っていた錠剤は三種類で、その内二種類は成分の含有量が違うだけの薬のようだった。説明書によればどれもアルツハイマー病の進行を抑えるものらしい。アルツハイマー病がどういった病気なのかは詳しくは知らなかった。祖母がこうして投薬の必要があるほどだという事実によって、己の命が削られていく気がした。悠基はセロハンテープを探していたことも忘れ、父の椅子に腰掛ける。
机の中央に鎮座するパソコンを起動した。インターネットブラウザを立ち上げ、『アルツハイマー』と検索する。一秒と掛からずに数万もの候補が画面を埋め尽くし、悠基は一番上の候補をクリックする。その速度に、これにはとても適わないとわずかに口角を吊り上げた。
その気になればコンピュータはこのページに記されている内容を一字一句違わずに、しかも瞬時に記憶する。もちろんコンピュータは自らそれをできないが、それで勝っている気になっている人間はそれこそ木偶と呼ぶに相応しい。記憶は機械に任せればいい。もちろんあればあるだけいいのだろうが、木偶が知識を蓄えたところで機械の出来損ないとなるだけだ。記憶はそれを活用できる者の道具に過ぎない。適材適所だ。棋士の赤点を笑う人間がいればそいつのほうがよっぽど馬鹿だ。
そのはずなのに何故だか世間は些事を偏重する。数学の方程式、古文単語の活用、英単語。そんなもので何も語れはしないのだ。語るべきことは他にあり、悠基はそれをもう一度しなければならない。しかし悠基は何も持っていない。
表示されたページにざっと目を通し、アルツハイマー病とは痴呆の一種であるらしいことを理解した悠基は再び処方箋を見た。次は薬の名前を検索してゆく。そうして薬の説明をするページを巡ってゆくうちに、ひとつの考えが過ぎった。
これこそが現代技術が実現した馬鹿につける薬なのではないか。かつての祖母を取り戻すための薬。それが祖母だけに効果を発揮するものとは考え難い。全ての病人に効果がある。そして悠基は自分のことを病気だと思い始めている。
そう、病気だ。決して限界などではない。そうでなければ悠基は今頃誰からも相手にされなくなっているに違いない。今の自分にどれだけの価値があるというのか。かつての自分にどれだけの価値があったか。両者の乖離は果てしなく大きい。
これを飲めば病気が治る。病気が治れば祖母も元通りになる。故にこの薬は祖母には必要ない。あまりにも明快なその論理を構成できたのは悠基の最後の意地だった。突拍子も無く危険だが、その魅力には抗いがたいものがある。一考の価値は充分にある。
鳴り出した電話がそれ以上の思考を中断させた。軽快な呼び出し音に内心うんざりしながら無線式の子機を取った。
「はい」
「えーと、大原さんのお宅でしょうか」
「はい、そうですが」
知らない男の声だった。父よりも老けた声から祖母の知り合いだろうと当たりをつけた。
「うちは石川っちゅうもんですが、大原さんところのおばあさんがね、今うちにおるんです」
「はい」
「それで、その、帰り道が分からん、言っとるんですわ」
「は?」
素っ頓狂な声を出してしまい、「すみません」と詫びてはみたものの、状況は飲み込めていなかった。
「えっと、それはつまり、どういうことなんでしょうか」
「いやあ、なんでもおばあさんは医者に行きたかったらしいのが、歩いているうちに道が分からんようになって、それで丁度近くにあったうちに『電話貸してください、孫がいるはずだから』言うて。おばあさんの持ちもんの中からこの番号見つけてかけてみたんですが」
「あの、それじゃあ祖母は今、全く面識の無いそちらにお邪魔しているんですか」
ほとんど悲鳴に近い自分の声を恥ずかしく思う余裕は無かった。大変なことになっているらしいとだけ理解した悠基は、受話器を耳に当てたまま着替えを探すために父の部屋を飛び出した。
「それで今からおばあさんをそちらの家の近くまで送っていこうと思うんですが」
「わかりました」
皆まで言わせずに悠基は待ち合わせ場所に自宅近くのコンビニを指定し、了解の返事を聞いてから電話を切った。会話中に見繕った服に着替え、玄関のドアを蹴り飛ばすようにして外に出る。日は落ちていて、雨が降っていた。舌打ちしながら一度玄関に引き返し、傘を二本持っていこうとしたが穴が開いていたり、骨が折れていたりとほとんどがどこかしら壊れていた。結局一本だけを手にコンビニへと走り出す。父の机を散らかしたまま片付けていないことに気付いたが、引き返すことはしなかった。
そわそわと落ち着かないのは駐車場へと入ってくる客や店内の店員から奇異の目を向けられるからではない。夜の帳が下り始めた中でも明るいコンビニに不相応なほどに暗い男が濡れながら立っていればそれも仕方の無いことだと思えたが。自宅からコンビニまで五分。到着してからは十分が経っていた。相手に分かりやすいようにと敢えて店の中で待つことはせずに雨の下で悠基は傘を差しコンビニの駐車場に立っていた。
自動車が一台入ってくる。祖母の乗った車かと思い停車した車に何歩か近づき車内を覗き込もうと首を伸ばすも、窓に貼付された黒いフィルムに阻まれる。運転席から降りてきたのは若い男だった。ドアを開けたことで車内に充満していた音楽が外に零れた。男は悠基に怪訝な一瞥を寄越しながらドアを閉め、店へ入っていった。車のエンジンは掛かったままだった。もったいないな、と悠基は思った。俺が車を運転できれば。
待ち始めてから駐車場に入ってきた車は今のものを含め全部で三台。もちろんいずれも祖母の乗ったものではなかった。こうして待っている時間が延びていくにつれ悠基は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。降り続ける雨も、窓のフィルムもそれに一役買っていた。