トランキライザ
「これほどとは思わねーよ普通。しかし、なんか意外だな。頭良さそうなのに」
「眼鏡掛けてるから?」
こう言われるのにはもう慣れていた。『眼鏡を掛けていればいかにも秀才に見える』と言うのは『自分は他人を見かけで判断している』と宣言しているのと同義だ。そう言ってくる人間に対し「お前は違うらしいな」といちいち皮肉を返していたのも今は昔だったが、こうして受け流すようになったのはそう思わなくなったからではなく、自分という人間が周りに理解されることを諦めたからだった。それに値する人間はここにはいない。彼らは悠基が眼鏡を掛けた理由を知ることがない。悠基が何を好むのか、どんなことを考えているのかということも。一方でそれを知る人間は少ないながらも確かに存在していて、悠基はそれで充分だと自らに言い聞かせる。
「よく言われるんだよ。全然そんなこと無いのにな」
そこで相手との会話を強引に切り上げ、黒板を何となしに見つめながら、昔はもっといたのにな、と追憶に耽る。進学校ではないといっても毎年卒業生の進学先に有名大学の名前がちらほらと挙がるこの高校はそれなり以上の水準にあることは疑いようがない。その学校の入試をすんなりと通過したにも関わらず現在こういった状況に陥っているのはなんとも不可解な話だと悠基は思う。
中学生時代にこうしてテストを返されるときは、いつも高揚を伴っていたように思う。自分の点数が平均点からどれだけ上に離れているのかを知ることに興味が無かったと言えば嘘になる。誰に見せびらかしていたわけでもないが、それでも勉強ができる人間として一目置かれることは悪い気分ではなかった。しかしそれよりも家に持ち帰り父と祖母に褒めてもらえるということが大きかった。特に祖母の喜び様はひとしおだった。
「ゆうちゃんはほんにようできる子だなあ。おばあさんはなあ、ゆうちゃんのことを本当はよそに自慢したいだが、なあ? でもなあ、そうやって自慢しとると『あそこのばあさんは孫が勉強ができるけえ、調子乗っ取るだがあ』って言われるけえ、我慢しとるだあ。おばあさんはほんに嬉しいだぞお」
こういったことをテストが返ってくる度に言われるのはむず痒くもあったが、それすらも心地よかった。
今は全てが変わってしまった。変えたわけではない。悠基は昔のままあり続けようとしても周りが変わっていく。
限界ということを考える。先日帰り道で中学時代の友人に会った時のことだった。小学校から悠基と同じ学校だった彼はその天賦の才である健脚を武器に市や県の陸上大会で好成績を残していた。しかし強豪の陸上部のある私立高校を受験したが失敗、県立高校へと進学した。ここまでが悠基が彼について知っていた全てだった。
「部活はやっぱり陸上やってんの?」
「いや、辞めた」
若干のよそよそしさを伴った再会の挨拶の後の会話がこれだった。思わず黙りこくる悠基に気を使ってか、彼は快活に笑った。
「そんな気にせんでもええけえ」
「いや、その。何でまた」
「うーん、俺って才能無いな、って」
本命の陸上部に入部することが叶わなかった彼は県立高の陸上部を甘く見ていた。数多くの大会で入賞したこともある自分にはここのレベルは低すぎる。甘かった、と彼は自嘲気味に微笑んだ。上級生はともかく、同じ一年生ですら自分よりも速い奴が何人もいた。無論彼も努力をしなかったわけではないと言う。
「でもな、やっぱりわかるわ。どう頑張っても埋まらん才能の差ってのは」
どこか遠くに視線を飛ばしながらそう言う。悠基は変わらず黙しているほかなかった。
「それで追いつけないのに何やってんのかなーとか思っちゃって。今はこうして帰宅部やっとる」
「まあ俺も帰宅部だし」
だからなんだと自分に毒づく。碌な言葉を掛けることができないのが歯痒かった。
「いやあ、ユーキは違うと思うで」
独特のイントネーションのそれは中学校時代の悠基の渾名だった。そうやって呼ばれることは久しぶりだった。
「やっぱ頭いいもんな。同じ帰宅部でも俺と比べもんにならん」
そんなことはない、とは言えなかった。彼もまた祖母と同じだ。嬉しくもあるが同時に抉られる。
「あ、でもテストの点を隠すのはちょっといけんけどな。あれ影で結構言われとったで。まだやっとる?」
「いや、その。別に」
中学時代の悠基はテストの点を聞かれると決まって嘘の点を教えていた。悠基としては謙遜のつもりで上にサバを読むのではなく、下に読んでいたのだが、それはすこぶる評判が悪かったらしい。もちろん今ではサバの読みようなどなかった。それでもはっきりと言わずにはぐらかしてしまう。どんどん墓穴を掘ってゆく。結局最後まで自分の成績の話はできなかった。
彼と交差点で別れた場所から悠基はしばらく彼の歩いてゆく姿を見つめ続けた。必要以上にゆっくりと帰ってゆくようにも見える彼の姿にいつか見たトラックを駆ける姿を重ね合わせようとしたが、浮かんできたのは輪郭も朧なシルエットだった。
彼のように、自分自身にも限界が来ているのではないか。中学校で習う内容までなら理解できるという限界。認めたくはないが何か妙案が思いつくわけでもない。これからずっと木偶の坊たちに両面価値を抱き続けるのか。溜息を吐いてみてもとうてい気分は晴れない。
「はい、みなさんこっち向いてください」
いつの間にやら担任はテストを配り終え、解説も終わっていた。数学教師が高い声を張り上げたがそれに反応したのは悠基も含めわずかだった。
「今回のこのクラスの平均点は三十点前半で、これは難し目に作ったとは言え一学年八クラスの中で最も悪かったです。一桁台の人もちらほら見受けられました。そういう人は基礎をやり直して分からないところは聞きに来てください」
もはやクラスの大多数を無視することに決めたらしい教師は向き合っている何人かだけを見回してゆく。悠基と目を合わせる時間が他よりも長いように思えたのは気のせいか。その視線を見返し、彼女は悠基をどちら側と見なしているのかとちらと考えたがそれだけだった。教師の言葉も周りの喧騒も全て呑み尽くす腐臭から逃れるにはどうすればよいか、悠基は考えを巡らせ始める。
きっと何かがずれているのだ。このクラスに中学校からの友人は一人としていなかった。もちろん木偶連中には昔話など聞かせているはずもない。彼らは高校での悠基を見て悠基の全てを理解した気になっている。問題は二人の別人が同一人物とみなされていることに起因する。お互いにとって迷惑なその状況をどうやって打破すべきか悠基は考え始める。
父の机にはいつでも同じ場所に同じものがあるように思う。ラックに並ぶファイルの順番、座ったままでも手を伸ばせば届く位置に置かれた小物入れの中身の配置。さらにはそこにある付箋の枚数までもがいつ見ても減っていないように思えた。使われていないわけではない。現にラックに立ててある父のノートにはどれもこれでもかと付箋が貼り付けてあり、こちらは目にするたびその数を増やしていた。