トランキライザ
その鬼の形相に押され、悠基は涙ぐみながら居間を逃げ出した。「どうなっとるだいや」の声に追われ廊下を走った。祖母の部屋に逃げ込み、鍵の付いていない内開きのドアをどうにかして閉めようと体全体で押さえようとした瞬間、力任せにドアが蹴り飛ばされ貼り付いていた悠基は吹き飛ばされた。
「どうなっとるだいや」
右手一本、齢八十を越えていた老人とは思えない力で床に倒れて泣き叫ぶ悠基の胸倉を掴み上げ、左手に持ったラムネ瓶を悠基に向かってずいと突き出す。ビー玉の取り出し方など知らずただ泣く悠基を祖父は開放することをしない。追いかけてきた祖母が足にすがり付いて止めるのを無視してただ「どうなっとるだいや」と目を剥いてひたすら繰り返していた祖父は、しばらくすると祖母の部屋の家具にその矛先を変えた。悠基を放り投げ祖母の家具を「どうなっとるだいや」と叫びながら破壊して回る。悠基と祖父の間に割り込んだ祖母の背中に庇われながら悠基は祖母の部屋と祖父が崩壊していく様を見た。覚えているのはそこまでだった。
それがどうやって解決したのかは記憶していない。祖父が疲れ果て動きを止めたのか、祖母の説得が通じたのか、はたまた仕事から帰ってきた父が止めたのか。知りたいとは思わなかった。
それからどれだけ経ってか、祖父は「煙草を買ってくる」とだけ言い残し姿を消した。これも悠基は直接その様子を見たわけではなかった。気が付けば祖父はいなくなっていて、そして気が付けば無言の帰宅を果たしていた。行き倒れているところを発見されたらしい。失踪していたこの二年でどこまで煙草を買いに行ったのか、まるで喜劇だ。祖父の遺体と対面した悠基はそれ以上の感慨を抱けず、むしろ祖父発見の一報を受けたのが家族旅行中だったためにその後の旅行の予定がご破算となったことを残念がった。
祖父と悠基の間にあったこれらの出来事から、父は祖父が死んでから悠基の前で祖父の話を持ち出したことはなかった。その様子を見て祖父の子としての父と悠基の父としての父が別人であることを悠基は理解していた。
二年間の間、家族はそこに存在しないはずの祖父を中心に成立していた。休日になると父は決まって尋ね人のチラシを刷り、近くの電柱に貼って回っていた。一月に一回ほどの頻度でもたらされる「それらしき人を見た」という知らせを頼りに向かっても全てが無駄足だった。情報が入ってくるならまだいい方で、悪戯電話だったことも一度や二度ではない。そうして振り回されることに全員が疲れきっていたところに飛び込んだ祖父死亡の知らせ。しかしこの歪んだ生活から開放されると内心喜んだのは悠基だけらしく、父も祖母も自由を喜ぶことも祖父の死の悲しみに沈むこともせず、特別な感情を見せなかった。決して幸せとは言えない祖父の死を前にしても父は普段と変わらず淡々と葬式の準備を進めていた。祖母もまたそうだった。
それはおそらく彼らが悠基とは違いある程度感情のコントロールができるからということや、失踪中に祖父の生存を諦めていたという訳でもなく、祖父が失踪したその時既に祖父の妻と子は死んでいたのだろうと思う。
祖父は孤独な一老人として死んだ。彼を記憶するものは誰もいなかった。父と祖母はその老人によく似た自分の父、あるいは夫を思いながら今を生きている。悠基には祖父がいない。
「まあ、あれだ」
努めて明るい声を出したようにも聞こえる父の言葉によって悠基は意識を引き戻される。
「これから同じこと何べんも聞かれたりするかもしれないけど、なるべく優しく接してあげてくれ」
「わかった」
答えたものの、自信は無かった。繰り返し同じことを聞かされることに対してではなく、祖母のその姿を直視し続ける自信が。
「頼んだぞ」
そう言って卓袱台を再び拭き始めた父に答えることはせず、居間を出て行く。一歩出ただけの廊下は暗く、照明のスイッチに辿りつき入れたところで祖母がすぐ傍に立っていことのに気が付いた。まるで点灯によって現れたかのように気配が無かった。驚いて反射的に声が出てしまいそうになるのをなんとか堪え、意識してゆっくりと話し掛けた。
「どうしたの、こんなところで」
「いやあ、お父さんはまだ帰ってないだかっちゅうことを聞きに来ただが」
父が帰ってきたのは今から二時間前で、その時に祖母は頼んでいた買い物を父から直接受け取っていた。悟られないように小さく舌を打った。
「帰ってるよ」
溜息混じりに吐き出したが、果たしてそれは聞こえていたのか。そんならええ、と満足そうに頷いた祖母は続けて「おいシンさん」と父を呼んだ。
「はい」
父が叫び返し、廊下に出てくる。自分がいつもする返事と声のトーンが同じことに悠基は気付いた。
「いつ帰っとっただ。帰っとったらわしにも言うてくれりゃあええだのに」
「今帰ったけえ。心配せんでもええけえ」
父は流石の機敏で取り繕うことに決めたらしい。鳥取弁で話す父がどこか自分自身に言い聞かせているようにも見えたのは錯覚かもしれない。
「そうは言っても心配だがなあ。ゆうちゃんはお腹空かせてかわいいし」
「大丈夫、大丈夫だけえ」
散々宥め賺してようやく自室へと引き上げる祖母を父と二人で見送る。深い溜息をついてしまってから、これはまずかったかな、と思った。
「お父さんってさ、会社でも鳥取弁使うの?」
「まあ、そうだな。使うかな」
「やりにくくない? 僕と話すときだけ標準語って」
「別に」
「そう」
そうは言ってもひとつに纏めればその方が楽だろうと悠基は思う。それを苦に思わないのは人生経験の差か、それとも何か悠基との標準語の会話の中にそれを気にさせない何かがあるのか。悠基はわずかに口許を緩めた。
「風呂洗ってくるよ」
「おう」
会話が一区切りつき、悠基は風呂場へ父は居間へとそれぞれ歩いてゆく。廊下を電灯が煌々と照らし続けていた。父がそれを消して居間に入った。
「もっと頑張れ」
「はい」
アドバイスも投げやりなら、それに対する返事もまた投げやりだ。
数学教師から数学?の答案を受け取り、点数をその場で見ることはせずに悠基は自分の席へと戻ってゆく。他の人間のように返されたその場で一喜一憂などしたくはないというのがひとつ、見ずともある程度予想ができるというのがもうひとつ。席について他人に見えないよう注意して答案を広げると果たして予想は外れていなかった。
「大原、何点だった?」
隣の席の生徒が話しかけてくる。名前は知っていて、何度か話したこともあった。しかし所詮は木偶。あくまでも相対的なものに自分の価値を見出そうとする様子は好きになれなかった。
「そんな、見せるような点じゃないから」
「まあそう言うなって」
「あ、ちょっと」
止めるのも聞かず、答案用紙がひったくられる。彼らはいつもそうだった。人の話を聞いていないのか、あるいは聞いていながら従っていないのか。親しみやすいというよりも厚かましいというほうがしっくりくるその強引さも悠基が馴染めない理由のひとつだった。
「ドンマイ」
それだけ言いながら答案を返される。あまりの酷さに言葉が出ないようだったが、それは悠基も同じだった。
「だから言ったのに。見せるような点じゃないって」