小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

トランキライザ

INDEX|2ページ/12ページ|

次のページ前のページ
 

 三手詰めの答えを掴みかけていたところを邪魔されたことも相俟って苛立ちながらこちらも叫び返すとああ、帰っとる帰っとる、と呟く声と廊下を踏みしめる足音がこちらに近づいてくる。腰を曲げて歩くせいかその足音は悠基のものよりも父のものよりも重く聞こえる。部屋のドアが開け放たれ、声の主である祖母が姿を見せた。口癖となってしまっている「えらい」をしきりに呟きながら開かれた部屋の入り口に座り込んだ。老人特有の臭いが鼻につく。苛立ちは一時的なものですぐに引き、次にやってくるのは無関心だった。
「いつ帰っただ」
「さっき」
 悠基は苛立ちが出てしまっている顔を本で隠しながらそう返す。
「おやつはあるだか」
「ある」
「あるだか」
 意外、という感じの声を無視してページをめくる。ぞんざいな扱いをしてしまっているのは自分でも重々承知していた。しかし耳の遠くなってきた祖母に普段の調子で接すれば十中八九聞き返されることとなる。一回二回のうちはまだいい。それ以上になると言う方も聞く方も気分を害す。それを防ぐためにはこうするより他に無い。
「ゆうちゃん、掃除せんだか。この部屋」
「そのうちやるよ」
「おばあさんが掃除してあげようか」
「いい!」
 悠基の部屋は散らかってはいたが、その散らかり様に宿っている秩序を乱されるのは我慢ならなかった。
 それでも祖母は話し続ける。
「今日わしは眼医者さんに行ってきてよお、それで薬貰って帰ってきた」
「そう」
「ゆうちゃん、体だけはめげんようにせえよ。なんぼ頭が良うても、体がめげたらなんにもならんけえな」
「うん」
「ゆうちゃんは利口なだけえ。体にさえ気ぃつけりゃあ、なんでもできる」
 今度は答えられずに悠基は黙した。今は馬鹿なんだよ、俺は。祖母が捉える悠基はまだ利口でおやつの必要な年齢らしかった。
「なにかおばあさんに聞かせられるような面白い話はないだか」
「無い」
「無いだか」
「は」と「ほ」が混ざったような声を連続させて祖母は心底可笑しそうに笑った。この笑い方は何年も前から、恐らくは父が子供だった頃から変わっていないのだろう。さらに言うならばこれから先も。
 これから。これからとはいつまでだ。七歳の時に父の実家であるこの家に越してきて既に十年が経っていた。その十年で神童と呼ばれた小学生は平均以下の高校生に、もう一方は今のところ大した変化も見えずに十歳年を取った。まるで祖母は自分だけの時間を止めてしまったようだった。きっとその時間の中では悠基はずっと賢い子供のままなのだろう。それが老人ならば誰にでも見出すことのできる現象だとは理解しつつも、悠基は羨ましいと思うことを止められない。永遠に侵されることのない安穏。かつて自分が棲んでいた場所にもう一度戻ることができたら。
「よいしょ、どっこらしょ」
 祖母がえらいえらいと呟きながら文字通りに腰だけを上げる。
「これ以上ここにおってもゆうちゃんの邪魔になるだけだけえ、おばあさんはあっち行くで」
「そう」
「最後にこっち向いて顔見せてくれんか」
 いつも通りだった。大抵部屋で何か本を読んでいる悠基のところへ祖母がやってくる。おやつはあるかと聞き、今日何をしたかを聞かせ、何があったかを聞きたがる。そしてその間中ずっと本から目を離さない悠基の顔を最後に見て部屋に帰っていく。顔を見た祖母はあの独特の笑い方で「見た見た」と満足そうに戻っていくのだった。どれだけ邪険に扱われようともそれは毎日変わらない日課であった。
「はいはい」
 面倒そうな声を出し、ともすれば照れで緩みそうな顔を引き締めながら祖母に顔を向ける。いつもと同じ反応を期待した悠基は、しかしそこにあった祖母の表情はいつもと違い、どこか呆気に取られた祖母の顔を見据えた。
「ゆうちゃんは眼鏡かけとったかいなあ」
 瞬間、祖母の立っている開かれた部屋の入り口から冷たいものが吹き込んできたような気がした。小学校に入学してから今までずっと眼鏡を外して生活していたことはなかった。衝撃が走ったのも一瞬、冷却された思考で悠基は慎重に言葉を選んで返す。
「眼鏡はかけてるよ。ずっと」
「そうかいな」
 ありゃあ、おばあさんはボケちゃっただらあか、と笑いながら帰ってゆく祖母に悠基は何も言葉をかけられず、ただその小さな後姿を見送った。

「お父さん、ちょっと話があるんだけど」
「おう、どうした」
 夕食を食べ終え、卓袱台を布巾で拭いている父に悠基はこう切り出した。
「おばあちゃんのことなんだけど」
 父が卓袱台を拭く手を止め、日焼けした顔をこちらに向ける。
「今日、僕の顔を見て、前から眼鏡かけてたっけ、っていうようなことを言ってきたんだけど」
「そうか」
 溜息混じりに深刻そうに頷き、しかし別段驚いた様子を見せない父にはやはり予感めいたものがあったのだろう。
「悠は今日が初めてだったかもしれないけど、前からそういうことはちょくちょくあったんだ」
 そう語る父の表情は平素と変わらず、特別な感情を読み取ることはできない。ただただ事実を受け止めているようだった。
 自分の親が呆けていくのを見るのはどんな気分なのだろう。自分の親がだんだんとそれでなくなり、ひとつの動物と化していく様を見るのは。今父の中にあるのは悔しさか、諦めか、それらとは違う別の何かか。いずれにせよそれを表に出さないでいるところはいかにも父らしいと言えた。
「今度病院に連れて行こうかと思ってたんだけど、早めたほうがいいかもなあ」
悠基に言うでもなく父は一人ごち、最後にさらに小さく親父の例もあったしな、と付け加えた。悠基に聞かせるつもりはなかっただろうそれは、悠基に埋もれていた祖父の記憶を掘り起こさせた。

 父の父、悠基にとっての祖父である彼は八年前に死んだ。最後の二年は失踪していたので悠基がここに引っ越してきてから一年ほど一緒に暮らしたことになる。当時既に相当痴呆が進んでいた祖父に悠基は文字通り泣かされたことが度々あった。そのせいか祖父について覚えていることはほとんど無い。
 ひとつだけはっきりと覚えているのは、祖母にラムネを貰った時のことだ。まだ足腰が丈夫だった祖母が畑仕事に出たついでに買ってきたラムネを小学校から帰った悠基が飲み終えたところに祖父がやって来て、卓袱台に置いていた空き瓶を手に取った。悠基と祖母がオセロに興じる横でずっと瓶をいじり、そして唐突に怒りだしたのだった。
「どうなっとるだいや」
「どうしただ、おじいさん」
「どうなっとるだいや。中のもんが取れんだっちゃ」
 突然大声を出されて怯える悠基を庇うように祖母が声をかけてもお構いなしに猛る祖父は、どうやら瓶の中のビー玉を取り出そうとしていたらしい。大の大人がラムネ瓶に指を突っ込みビー玉が取れないとがなり散らす様は今にして思えば滑稽だが、もちろんその時は笑うことなどできなかった。なんとかなだめようとする祖母を跳ね除け、祖父は瓶を片手に悠基に迫る。
「どうなっとるだいや」
作品名:トランキライザ 作家名:受け渡し