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トランキライザ

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 化学の教科書を手にして、これが自分の頭の中にすっぽり入るだろうかと考えてみる。
頭蓋骨から脳を抜き、代わりに教科書を入れられた人間。
それはもはや人間とは呼べないのだろう。人間の形をした趣味の悪い、実用性に乏しい本棚。そうはなりたくない、と悠基は思う。
 幸か不幸か悠基はそうではなかったが、この猿山を思わせる騒がしさの教室の中にも真剣にそれになりたがっている人間が何人かはいて、隣の特進クラスを覗けばそんな本棚が何個もあるはずだった。
 しかし、と悠基は自問する。本当はどうなんだ。労せずして図書館になれるとしたら。たった今断じた木偶になれるとしたら。悠基は机に広げたままになっていた答案用紙に目を落とす。先ほど返されたばかりの化学のテストだった。点数欄にある数字は一つで、対照的に解答欄にはやたらと朱筆が入っていた。何度見直しても、何秒見つめても何かが変わるはずはなかった。
 じくじくとずっと燻り続ける苛立ちは、丁度頭上で点滅を繰り返す壊れかけの蛍光灯によるものではない。別段自分が他人に比べて劣っているとは思わなかった。むしろ良い方だとさえ感じている。自惚れなのだろう。自慢に思うこともなく、しかし恥じることもなかった。問題はそれが現在のところ内容を伴っていないせいで説得力が皆無であることだった。ほんの数ヶ月前までは充分な説得力を伴っていたそれだけが変わらずそこにあった。
 答案用紙から顔を上げる。最後列のこの席からは教室全体の様子がよく見える。教壇に立つ教師の解説に聞き入る者。間違えた問題を解き直す者。あるいは他の教科の勉強をこっそりと進める者。そういった向学心のある者、あるいは本棚予備軍はごくわずかで、居眠りをしたり、無駄話をしている輩が大多数を占めていた。
 どうにも進学校と呼ばれたいらしいこの学校は、今年度から新入生に対しクラス分けの試験を課し成績優秀者を特進クラスのひとつに集め隔離することを始めた。「成績の良い人は良い環境でさらに伸び、良くない人は見返してやろうとして成績を伸ばすことができる」とは最初のホームルームでの担任の弁だったか。もちろん事はそうは運ばず特進クラスの人間が歪んだ選民意識を持つようになった一方で、それ以外の人間はほとんどが腐って成績を落とすか、それでなくても伸ばすことに成功している人間は皆無といってよかった。持つものは驕り、持たざるものは窮するという資本主義社会の欠陥を図らずも再現したこの学校はある意味では理想とされる教育機関なのかもしれない。そう思いつき、これはなかなか面白い冗談だと悠基は密かに自画自賛したが、このクラスの人間には理解できないだろうし、特進の木偶たちには別の理由で理解できないだろうことから一人で笑うに留まっていた。
 授業の終了を告げるチャイムが鳴る。教師は挨拶もそこそこに既に片付けていた荷物を持ち小走りに教室を出て行った。長居するとこちらまで腐ると言わんばかりだった。そんな様子にも腹を立てているのは悠基一人らしかった。
 毒され始めた教師と無関係に悠基は不快感を覚える。先ほどから変わらず騒がしい周りの人間。机に広げられたままの赤点のテスト。ちかちかと煩い蛍光灯。しかしそれよりも目を逸らし続けていたものを直視せざるを得ないという現実。認めたくはなかった。しかしできるならば労せずして木偶になりたいという思いが確かに存在するということは悠基にとって我慢のならないものだった。

 成績と反比例して上達していくのは、暇つぶしの方法と成績の悪さの言い訳を考えることとだ。悠基はいつものように自宅の玄関先に置かれたプランターの下にある鍵を取り、施錠されたドアを開けた。無用心極まりないとは思うのだがこの片田舎ではそれが問題となることはない。それにこの毎日の決まりきった儀式は嫌いではなかった。
「ただいま」
 脱いだ靴をそろえながら言うも、返事は返ってこない。鍵は閉まっていたので当然のことだったが、それでも悠基は家に戻るとこう言うことを欠かしたことは無かった。
 自室で部屋着に着替え、脱いだ学生服をハンガーに掛け、鞄から買ってきたばかりの詰将棋の本を取り出す。将棋は駒の動かし方すら知らなかったが、たまにはこういうものもいいかもしれないと学校からの帰りに立ち寄った本屋で半ば衝動的に買ってきたものだった。ページを適当にめくってゆく。当分暇つぶしには困らないだろうなと本を閉じたところで、表紙にある著者の名前が目に留まった。もちろんそれまで聞いたこともない名前だったがおそらく将棋界では有名なのだろう彼は、学生時代に勉強はできたのだろうかという思いが頭をよぎったのだった。
 コンピューターがチェスの世界チャンピオンを負かしたという話は聞いても、将棋でそれをしたというのは寡聞にして聞いたことがない。というのも将棋はチェスと違い取った相手の駒を自分の駒として利用できるというルールに起因するらしい。そうして生み出される数多の可能性の中から最善と思われる一手を選び勝負する彼らは、とても頭が悪いようには思えない。しかし頭が良いからといって勉強ができるわけではなく、逆もまた然りだということを悠基はもちろん知っていた。
 ならば頭が良いとはどういうことか。何とはなしに発したその自問の鋭さに悠基はたじろぐ。記憶力か、思考力か。納得できるような答えを見つけることは叶わない。ならば、そうやって得体の知れないものになぜそうまでして自分はしがみつくのか。繰り出された二発目は悠基を大きく抉った。
 学校で習う勉強が何の役に立つものか、俺は頭がいいのだといくら言い張ったところで世間はそう思ってはくれない。それに、役に立たないことすら満足にできない奴が何か役に立つことができるとでも言うのか。自分であるにも関わらず、自分であるからこそ悠基は悠基への攻撃を緩めない。本来の自分。そんなものが幻想に過ぎないことは自分が一番よく分かっているはずだろう。
 悠基は溜息をつき、無言で言い返す。本来の姿が幻想ならばお前はなんなのだ。どれだけ歪であろうともお前は俺の理想ではないのか、とそこまで捲くし立てたところでそれが反論になっていないことに気が付いた。狂ったように笑い出す声を聞きながら再び深い溜息をついて本を放り投げる。そのまま頭を抱えた悠基はしばらくしてから立ち上がり、しかしすぐにその場に座りなおす。
「反論できないよな、流石だよ」
 また笑い声が聞こえた。自分が笑ったのか、自分に嘲われたのかはわからなかった。

「ゆうちゃん、帰っとるだかあ」
 良くないことだとは分かってはいるが、それでも眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。どうしていつもいつも玄関を開けたところで叫ぶのか。鍵を閉めて出て行ったのなら、鍵が開いていることで帰っていると分かるだろうに。よしんば泥棒に入られて鍵が開いていたとしても、泥棒は返事などしないだろう。
「ああ!」
作品名:トランキライザ 作家名:受け渡し