私の読む「宇津保物語」第三巻 藤原の君
『道隆寺で上野宮が立派な法要をなさると言うことだから、政所の若い者全員で席を占めてしまえ、若い娘達を現物に出して見物させよう」
と伝えた。
和正少将が道隆寺に行って物見車を置く場所を取らせた。上野宮の男達が
「わが宮に粗略な態度をなさる正頼殿には、どれぐらいの場所を取られるのです」
「ただ車一台分だけですよ、お乗りになる大殿の姫君あて宮様が、『面白そうですから見物したいです』と仰られたので、場所取りに来たんだよ」
「よろしいです『仇は徳をもちて』と言う諺がある、その通に致しましょう」
と、良い場所を与えた。
道隆寺塔供養の日が来て、正頼は身分の低い使用人の娘で、年が若く器量の良い者を呼んで、装束を美しく着飾って、舎人の娘・大人二人・童一人(木樵の娘)達を、金の鍍金を施した牛車一台、檳榔毛(びろうげ)の車二台、黄金の車に使用人の娘、大人と童を乗せて、檳榔毛(びろうげ)の車には、正頼の男の子達が乗り込んで出かけた。
「あてこそのお陰で、この娘は上野宮の北方になるだろうよ、普通の身分の者よりは優れているだろう。決してあて宮の身代わりだという事を見せないように。自分があて宮だと思いこむのだ」
と、正頼は強く娘に言い聞かせた。
絵解
画面は正頼の殿で、物見車が三輛、あて宮の身代わりの娘は年十四、清らかな容姿。大人童、お付 きの者も器量が良い。
こうして、道隆寺塔供養は晴々と実施されたが、普通ではない奇怪なことが次々と発生した。先ず、嵯峨院の牛飼いが、じゃれて大声で騒ぎ立てる。説教が始まると講師は話しどころか鼓を敲いて歌い出す。説教というと古くさいと言って、その真似をする。
そうこうしているところに、正頼大将の車が来て、先駆けに三十人ほどが並んで立つ。コレを見て上野宮は、あて宮が本当に来場していると信じた。
「御講を始めてください」
例にはない牛飼い達が踊り出す。無頼の輩が集まってわめき散らす。見物人の中には上野宮の計画を知っている者も居て、この騒ぎが宮があて宮を攫うのだと、おかしくて見ていると。
博打や京童が山ほど集まって、偽あて宮の乗る一の車を奪い取る。正頼の使用人達は、わざと恐れて騒ぐので、
上野宮は簾を上げて、
「奪い取ったぞ、これが出し惜しみされた娘ごか、今までの無礼がここで終わった。愚かなことをなされた者だ。やっと娘を得たぞ、京の若衆達よ」
牛飼い達は、手をたたいてはやす。
絵解
ここは道隆寺、汚らしい老人、牛飼い、集まり居る。
博打、京童、車を奪う。
上野宮が奪い取った車に片足上げて乗り込もうとしている。
そうして上野宮の御殿に帰り、長年考えた場所に偽のあて宮を座らせて、七日七夜、宴会を開いて、酒盛り管弦を大いにぶち上げた。博打に願掛けをしてくれた大徳、宗慶を招いて、
「あなた達のお陰で長い間嘆きました気持ちが収まりまして本当に慶んでいま。願が開いたお礼に仏像を造り奉納いたします。万の神々にはみてぐらを奉納いたします」
上野宮は禊ぎをすると河原に北方と共に出て、
「世の中に神仏は、おられます」
と北方(偽あて宮)に、
「貴女のためにこのように万の神仏に祈願をした結果、その甲斐があって全て成就した。そこで、
千早ぶる神もいのりはきく物を
つらくも見えし君が心か
(荒ぶる神でさえもお祈りすれば願いを叶えて下さるのに、優しいはずの貴女のお心は何と冷たいことでしたろう)
北の方
すみなれぬ宿をば見じと祈りしを
我には神もかひなかりけり
(住み慣れない宿は見まい、見せ給うなとお祈りしたのに、こういう事になってしまって、私には神があっても何の甲斐もありませんでした)
なんて、顔色替えずに無表情で言う。
絵解
上野宮の殿の画で、偽のあて宮を連れてきて、濱床(帳台の中)に座らせて、鄭重盛大な婚儀を行 うところである。
大人達が来て、朱塗りの台を据えて、金属の器で料理を差し上げる。上野宮が手ずから取って差し 上げる。
博打、京童、ろくでなし集まって、机に向かって飲食する。
京童部に褒美(被物)を掛けてあげる。ろくでなしにも褒美をあげる。
第二の画面
仏師が仏像を一心に造るところ。
第三の画面
ここは河原、共に車に乗って宮と北方が来る。空車に、御幣齋串を積んで、陰陽師は、馬で先に立 つ。
次に男が出て、神に齋串を捧げて祝詞を読む。
こうして、偽あて宮の腹に子供が出来て三春という姓を賜った。この子は若いときより政治に携わり、位が高くなるまで妻を持たず、使用人も雇わなかった。
京以外の地に赴任しているときは、食事を与えることも要らず、着る物も欲しがらない者を、使用人として使い、自分の食事は三合の米でしのいで、国を治めて、問題が全くなく、私財を多く蓄積した。
大きな倉には、一国を治めるだけの物が入り、六国に赴任したので多くの倉を建てて、蓄財を納めたので、宰相兼左大弁となった。さらに、近衛府の中納言兼大将になった。
こうして、京に住むにしても、衣食を与えないでは使用人は集まらない。
内裏に出仕するときは、牛車は板張りの粗末な車に、やせた貧弱な牛を繋いで、牛飼いには小さな女童が縄の手綱を握り、伊予産の篠で編んだ簾で、糸がほつれているのを、板の車体に掛けて、手作りの麻布を袍として薄紫に染めて、同じ布を下襲、上袴として穿き、近衛府の中納言兼大将であるから、随身として将監等が付くのであるが、小さな童に小太刀を腰に差させて、古い藁で造った靫(うつぼ)に篠葉を集め、木の枝に細い縄をつけて弓と称して持たせて参内すると、都中の笑い者になった。
高基と名乗った彼には、自信があって、人の嘲笑など問題にしないで、平気で朝廷の仲間と交わりをする。
賢い人で政治のことには間違いがない。暴れる兵士や獣まで高基に逆らう者が無く、従った。そいうことで、この変わった男を朝廷は見放すことが出来なかった。
そうして、大臣にまでなった。男独り身で今までのようなけちな暮らしではおられない。
「おれは、物を食べない女を得よう」
絹倉の多く立つ市に住む、徳町という商いをする裕福な女がいた。それを召し上げて北方に据えた。
「そこで、このような板の車に乗り、このような装束で歩き回るのを、人々は非難される。幾人かの人が仕えたいと言って、貴方に差し上げた名簿を側に置いておけば、別に粗末な食事を与えなくても、仕えてくるものです。このような小さな女童ばかりをお使いになるのは、見苦しいことです」
北方が高基に申し上げるので、
「なるほどその通りである」
北方の言うとおりにする。
こうして人が訪問してくる。侍所に高基は毎日出仕したが、徳町が市に出て不在の時に、
「侍所に食べるものがありません」
と高基に訴えてきたので、高基は正気を失ってとまどい、言うことに、
作品名:私の読む「宇津保物語」第三巻 藤原の君 作家名:陽高慈雨