私の読む「宇津保物語」第三巻 藤原の君
「だからこそ、今日まで人を使わずにやってきたのだ。どれだけ費用がかかるか。まして新しく一五人も雇い上げ、付け豆を一枝出しても十五要る。食せずに畑に蒔いて実らせたら莫大な物だ。
つくね芋を出しても十五。埋めて成長させれば、多くのつくね芋が採れる。
雲雀の乾した物を、コレを生かして置いて、囮としてつかうと大きな鳥がなんばも捕まえられる」
高基は放心状態である。
徳町が帰ってきて、
「どうされました、考え込んでおられるようですか」
「残念なことだ。物が使用されているのを計算すると、多くの損が見える。残念だ、お前の言うこと聞いて人を多く雇ってしまったお陰で、私は経験したことがない、物の催促を受けたよ」
徳町はそれを聞いて、高基を可愛そうだと思った。高基大臣は、
「男どもは酒を買って肴を出せと言う。心に掛けて聞けば、気持ちが乱れる」
女商人がそれを聞いて、爪をはじいて馬鹿にして、
「そんなわずかな費用で気持ちを動転させて。貧乏人の私でも、そんなことを考えたこともないのに」
納戸を開けて上等な果物、干物など全て引き出した。大臣高基、失神した。
高基大臣の住んでいるところは、七条大路近く、二町に四つの倉を並べて建ててある。
住んでいるところは、三間四方で萱葺きである。片方は建て付けが悪くてがたがたしている。片方は蔀の代わりに何かを編んで垂らしてある。
その萱葺きの家の周りは、檜の板を網代に組んで垣とした檜垣を巡らし、長屋が一棟。侍所、舎人所小さい。
酒殿の方から高基との住む萱葺きまでは畑が続く。高基の一家はみんなで鋤、鍬を持って畑を耕す。高基大臣だけが畑には降りない。全員が野良仕事。
この様子を、見た人は、
「蔀の下まで畑を耕され、しかも御殿の周りまで畑にするとはもってのほかである。倉を一つ開いて気持ちの良い殿舎をお造りなさい。諺にも「財には主避く」と言うではないか。世の中の人は貴方のケチぶりを非難していますよ」
「どうにもならない意味のないことは。正頼大将が広大な敷地に美しい館を多く建造して、正頼の娘に群がる男達を集め、散財する。
立派な大殿を建造した正頼は少しもそれにふさわしい清らかなことはないではないか。それだけの財を蓄えて、その金で市に出て商売をすることが、賢い者のすることである。
自分がこのような住まいをしても、民は苦しむことはない。
清らかに住む人ほど、公事に妨げとなり、人を苦しめることになるのだ」
と高基が言う。
そのころ小さい子供が病にかかり、死にかけているのに、親が大願をかけて助かった。
その親が亡くなるときに遺言で願掛けの礼(願果し)をするように言い置いたのだが、こんな金持ちのくせに親の言うことをしなかった。
その願果しをしなかった罪か、大病に罹って高基は死にそうになった。北方の徳町は、願掛け、大祓をしようとすると、高基は自分のために、財を塵ほども費うでない。
「祓いをすれば撒く米が要るだろう。籾で種まきをすれば多くの収穫を得る。
修法、加持祈祷をすれば五石の米が必要である。
戒壇をを造るには土が要る。土三寸の厚みがあれば多くの収穫がある。
一つの果物の木は沢山実をつける。
ごまは油に絞り、売ると多くの銭が入る。その滓は味噌にすればよい。粟、麦、豆、ササゲ、それぞれ利益を生むのである」
そういう利益を得るのに、加持祈祷なんかはするのではない。
そうして高基は病に伏せたままで居ると、食事に橘一つ湯水も飲まない。
「無駄に橘を沢山食べた。種一つで橘の木が一本生える。多くの実をつける。今は食べない」
食事をとらずに日が過ぎた。高基は、
「うちで出来た橘でなくて、他所で出来たのを一つ食べたい」
冬に熟す橘は五月半ばには何処にもない。自分の畑にはある。そっと高基に知られないようにして女商人が持ってきた。高基の子供でこの女商人(徳町)が生んだ五歳になる子供が、母に逆らうことがあって、そっと高基に告げた。
「お母さんは、ここの畑のをとってきたんだよ」
と告げ口をしたら、高基は粟、米を包んでくれた、という。
高基の衰弱した心に胸がつぶれるようなことをきいて、ぼんやりしてしまった。女商人は、
「外聞が悪く、人が聞いたら何というかと悲しいです。この子は私に腹を立てて、貴方が停められたここの橘を私がもいで差し上げたことを、告げ口いたしました」
と言うと、彼女のしたことが間違ったことではなかったのか、高基の病が回復した。
この女商人は思った、
「大臣というほど高貴な方の妻とはなったが、私が商売で稼いで、私を始めみなさんが着物を着ているというようなものだ、分相応の夫を持つ方がいい」
と言って逃げて隠れてしまった。
コメント
高基が願果しをしなかったから大病にかかった。本文は、
「(前略)人のために苦しみをいたせ」など、の給フほどに、小くて病して、ほと/\しかりけるに、親、大きなる願どもを立てたりけり。なく成りにける時に、いひおきけれど、かゝる財の王にて果たさず。その罪に、恐しき病ツきて、ほとほと敷いますかリ。市女、まつり祓せサせんとする時に、の給フ。「あたら、物を。我ために、塵ばかりのわざすな。祓すとも、打撒に米いるべし。籾にて種なさば多く〈生〉るべし。修法せんに、五石いるべし。壇塗るに、土いるべし。(以下略)」
とあり、高基が子供の時に大病をして、親の上野宮と偽あて宮が、願を掛けて、子供の病が治った。親が死ぬときに高基に願果たし、お礼の奉納をしなさいと言い残した。しかし、高基はそれをしなかったから大病にかかった。
と、私は読みましたが、上野宮、そして北方にした偽あて宮は亡くなったのか、子供というのは高基のことか、分からないままに読み進みました。要するに高基のケチぶりの一例だと了解して先に進みます。
高基の妻の市女(商人女)が側にいて、あれこれと世話をして物をやったので、そうするものと思いこんで、侍所にいた人たちは、市女が居なくなった後でも、時々やってきて「食べる物がありません」などと催促した。
高基大臣は、
「昇殿して公の職にあるからこそ、従者が居ないことが体裁悪いのだ。
いっそのこと公職を退いて畑作りをして、一人か二人下男を使って暮らそう」
高基は位を返上して、例にないようなことを言う。
「才能もないつまらない私が、大臣のような高職に居てはならないことです。農民を雇って田畑を耕作しよう。大臣の位を返上して、都から離れた国を一つ領地として戴きたい」
と、申し上げる。
「それもそうだ」
作品名:私の読む「宇津保物語」第三巻 藤原の君 作家名:陽高慈雨