Desire
1日目:限られた世界
「俺を殺してくれ」
バルコニーへ続く、白い格子の窓は開け放たれている。白いレースのカーテンは我が物顔ではためき、強く吹き込んだ風がわたしを叩く。
目前に、きらり光を跳ね返す銀色。抱えた膝に黒い影が落ちる。呆けたわたしを見下ろしながら男は言った。わたしから奪い取った、その光るナイフを向けながら。聞き間違いでも冗談でもなく、悪い夢でもきっとない。
これは現実。この白い部屋に訪れた、変わることのない現実。
凛とした男の声が、代わり映えしないこの部屋の、止まった時間に問いかける。
「一ヶ月、時間をあげる。それまでに俺を、俺を殺して。殺すと、約束して」
彼は微笑む。月を背負って残酷に、悪魔のように。断ることなんてできないんだよと。
「でないと、君を殺さないといけないから」
泣きそうな顔で、彼は言う。
《…*…》
窓辺に男が立っている。雲一つない満月の星空を、彼の瞳は寂しげに仰ぐ。いつの間にか窓は閉じられ、鍵がかけられていた。
「おはよう。落ち着いた?」
彼がわたしに問いかけた。こちらを見る淡い紫色の瞳が月の光を呑み込み輝いている。動きに合わせ揺れる銀の髪には、赤いヘアピンが色を差していた。白く長い指が前髪を払えば、それは絵になるような美しさだ。
それとは対照的な、自分の白い髪が視界の端で揺れる。腰まで伸びるそれを同じ色のシーツで隠し、リアも彼に問いかけた。
「……あなたは、誰? わたしをどうしたいの。殺しに、きたの?」
「違うよ。俺は君に、殺されにきたんだ」
さも当たり前のようにそう言って、にこりと微笑えんだ。まるで話が通じない。
「人はいつか死ぬのに、わざわざ殺されに来る知り合いなんていないわ」
「そうだね。俺は君の部屋に押し入った、ただの侵入者だよ。君を人質に、自分を消し去りたい男。それ以上でも、それ以下でもない」
そう、彼は死にたがっている。見知らぬ部屋に転がり込み、見知らぬ少女を脅す程度には。
でも、殺すぞ。でなく、殺してくれ。なのはどういうことだろう。お金が欲しいわけでも、欲望に飢えてるわけでもないだろう。ただ純粋に死にたいと願う気持ちは、思いはどんなものなのだろう。
「……どうして、わたしなの?」
「君にしか、俺を殺せないから。かな」
「あなたは言ったわ。わたしを殺すって」
「それは君が、俺を殺してくれなかったらね」
問えば彼は答えてくれる。その言葉の意味が、リアにはわからないけれど。
ただ死にたい、殺して欲しいと繰り返す不思議な青年。年齢は、16歳のリアより年上に見える。ラフな七分袖のリネンシャツに、色褪せた水色のジーンズ。肌は白く、全体的に線が細い。首から下げた革紐のペンダントはアメジストだろうか。彼の淡い紫の瞳同様、月の光を受けて輝いている。
いつの間にかリアの隣へ。白いベッドに腰掛けた彼は、リアから奪い取った銀色のナイフを悲しげに見つめていた。
「……なら、わたしはあなたを殺さない。だからわたしを殺して」
「まだ約束の日じゃないよ。君が死に急いでどうするのさ」
「死ぬのは怖くないわ。殺さないと言っても、わざわざ目撃者を生かしておくなんてありえない。知ってる? 人間はね、嘘つきなのよ。だからあなたも、きっとわたしを殺すのよ。それなら、最初から殺して」
「嘘つき。本当は、とても怖いんだろう? だから君は俺に殺されようとする。でもね、俺も怖いから、君に殺されたいんだよ」
「……意味がわからないわ」
不用意に近づく意味も、獲物を見つめる瞳も、なにもかもがわからない。手を伸ばせば、彼の手に収まるナイフに届くだろう。それを奪い返せば、武器をなくせば彼はこの部屋を出て行くだろうか。それとも、黙ってナイフがその身を引き裂くのを待つのだろうか。
そもそも、大の男からナイフを奪い返すという発想自体が甘いのか。リアに抵抗する意思などないと考えているのか。
少なくとも、わたしは考えなかったーー
「ああ、もうすぐ朝が来る。また明日話そう。おやすみ、リア」
そう言うと彼は銀色のナイフをリアの手に握らせ、リアの髪を指で一梳きし、頭を撫でた。殺してくれだなんて嘘みたいに優しい手をしていた。
「どうして、わたしの名前……」
言い終わるよりはやく、瞼が落ちていく。名前のことも、ナイフのことも、声に出すより先に、世界が闇に落ちた。
名前を呼ばれたこと、不思議と悪い気はしなかった。
ふと、彼との"約束"を思い出す。彼を殺すか、彼に殺されるか。
これは約束なんかじゃない。あまりに理不尽な"契約"だ。加害者と被害者。死を望む男と、死を恐れる女。挙げればキリがないほど、すべてが違いすぎる。
だからか、思うのだ。わたしはきっとこの非現実を。
彼を忘れることができないだろうと。