Desire
2日目:微睡みの声
「おはよう、リア。それともこんばんは。かな?」
彼は今日も月を見ていた。窓辺に白い椅子を置いて、ひたすらに外の世界を見つめている。そんな彼の瞳は、ときおり悲しい目をするのだった。
「……どうして、わたしの名前を知っているの? 殺す相手の名前は、知っておきたいから?」
「そうだね。自分を殺してくれる人の名前は、やっぱり覚えておきたいと思うんだ」
昨夜の出来事を問うてみれば、微妙に噛み合わない答えが返ってくる。教えてくれる気はないようだ。
彼は昨夜、リアの名前を呼んだ。突然押しかけて、"約束"を押しつけた彼に名乗った覚えはない。彼はこの部屋にリアがいると、最初から知っていたのだ。殺してくれるなら誰でもよかったわけじゃない。彼の目的は、"リアに殺されること"だった。
そこが自分の居場所だとでも言うように、彼は椅子からリアの隣へ。リアのいるベッドへと腰掛ける。氷のように冷たい彼の手が、リアの手を取り、彼の白い首筋へと誘った。
ぞくりと、寒気がした。
「白くて華奢な、誰も傷つけられないような手に、俺は殺されるんだ。白い手が俺の血で赤く染まって、君の手は武器を握れるようになる。そうして俺の役目は終わるんだ」
「……わたしがあなたを殺すなんて、ありえないわ。絶対に、神にだって誓える」
彼の顔がぼやけ、薄れていく。白い部屋が溶けていき、まばゆい純白へと変わっていく。
ああ、そうか。わたしはまだ、夢を見ているのだ。世界が混ざり、溶け、ひとつになる。なんて、不思議な夢。
「リア」
一度は溶けて崩れた、彼がリアの名前を呼ぶ。悲しそうな顔をして、名前を呼ぶ。
どうしてあなたは、いつもそんな風に泣きそうな顔をしているの? 夢の中でぐらい、笑ってもいいじゃない。
「……君が苦しむ必要なんて、どこにもない。もう全部終わった。君を苦しめるものは、もうどこにもないんだよ」
彼の手が額に触れる。冷たい手が戸惑うように髪を梳いていく。
彼は代わり映えしない部屋へと現れた、特異点。彼だけが、この世界にいないひと。
どこからが現実で、どこからが夢だったのか。リアにはわからない。
世界が溶けていく。まばゆい純白が、ひとつに。
《…*…》
「気持ち悪い……近寄らないでよ……!この魔女っ……!」
鈍い音。両肩を襲う衝撃に、リアは努力の甲斐虚しく尻もちをついた。
声がする。声がリアを責め立てる。
ーーいい気味。
ーー調子に乗るんじゃないわ。
ーーお前の居場所なんかないんだよ。
くすくすと笑い声。たくさんの淀んだ瞳がリアに向けられた。
どうして。わたしはあなたたちより、少しだけ肌が弱くて、太陽が苦手なだけ。それ以外は同じだよ。
わたしの両目が赤くたって、わたしが見ている世界は赤くない。あなたたちと同じだよ。
ねぇ、本当なんだよ。
不意に、世界が陰る。顔をあげればいつの間にか、銀色のナイフがこちらを向いていた。振り上げられたナイフから零れる、鈍色の光。
みんなが笑っている。ニヤニヤと狂った笑みを浮かべて。誰かが言う。ナイフが振り下ろされる。
声がする。声が、リアを責め立てる。
あんたなんか×××いいのに。
《…*…》
「おはよう、リア」
ひんやりと冷たい彼の手が額に乗っている。もう片方の手でベットの上に広がったリアの髪をさわりながら、彼は問うた。
「どんな夢を見ていたの?」
「夢……?」
「うなされていたから。どんな夢を見ているのかと思ってね」
微笑む彼の目は、笑っていないような気がした。
夢なんて、見ていたのだろうか。思い出そうとすれば、こめかみがずきりと痛む。
「……覚えてない。でもうなされていたのなら、きっと覚えていられないぐらい嫌な夢だったのよ」
「そう。なら、思い出さない方がいいね。忘れてしまおう。全部」
「……?」
不意に感じた。わたしは、なにかを忘れている。なにかとても、嫌なこと。
そんなもの、わざわざ思い出すものでもないのだろうと思う。嫌な記憶だから忘れるのだろう。楽しい記憶でさえすぐに色褪せてしまうのだから、悪い記憶なんてはやく消し去りたいに決まっている。
なのに、思い出さなければいけないと感じてしまうのは何故。
「ねぇ」
彼に問う。彼は無言でリアの言葉を待った。
「どうしてわたしの名前を知っているの? どうしてわたしにナイフを持たせたの?」
きっと、これじゃない。忘れているのはもっと深いこと。
「……自分を殺してくれる人の名前は覚えておきたいから。それに武器がなければ、男の俺を殺せないだろう?」
「武器を持っていたって無理よ。わたしに人は、殺せない」
自分で問うて、彼に言われて、リアの両手がナイフを握っているのに気がついた。彼が昨夜、リアの手に戻した銀色のナイフ。
こんなちっぽけなナイフでなにができる。せいぜい傷をつけるだけだ。人なんて、殺せるわけがない。
「できるよ、リアなら」
リアの心を読んだように、彼が優しく囁いた。